日本再生 297号(民主統一改題27号) 2004/1/1発行

国民主権の力で、小泉・棄民政権を追いつめ、
民主党の政権政党への飛躍のステージを拓こう

半分開いた政権選択選挙の扉を、国民主権の力でさらに開こうに

  2003年は「戦争」の年であった。三月に始まったイラク戦争は「戦闘終結宣言」の後も出口のみえない状況が続き、年末にはわれわれは自衛隊を「戦地」に送り出すこととなった。一方で11月に行われた総選挙では、「政治改革10年」にして、マニフェスト(政権公約)で政権を選ぶという政権選択選挙の扉が、「半分」開いた。
 04年はアメリカ大統領選挙の年である。「ならず者国家」の脅威に対して単独での先制攻撃も辞さず(ブッシュ・ドクトリン)というブッシュ政権の継続か、民主党政権への転換かは、国際政治を左右する重要な要素である。「ならず者国家」の脅威に対する先制攻撃は、テロとの戦いのひとつの側面ではあるが、それだけで解決できる問題ではないことは明らかだ。
 「グローバル化の影」をどう再統治するのか。この“とば口”を開けられるかが、イラク復興の成否を大きく左右する。イラク問題と並んで北朝鮮問題では、漂流しつづけているわが国にとっても、否応なく自らのスタンスを決せざるをえない。「日米同盟か国際協調か」という他人事のような評論ではなく、われわれ自身の生きるすべを東アジアという地域においていかに獲得するのかが、待ったなしで問われる。
 こうしたなか、7月には参議院選挙が行われる。民主党が政権交代の可能性を伸ばせるかは、民主党の政権政党への飛躍にかかっている。仮に衆議院で過半数を獲得しても参議院で過半数割れでは、マニフェストで約束した法案を成立させることはできない。04年参院選、07年参院選、その間に必ずある総選挙(任期満了が07年)をワンセットの戦略日程として、政権政党への飛躍のためのロードマップをつくりあげ、国民主権の力でそれを実現していく戦略性、統治能力がシビアに問われる。
 マニフェストが問うのは、政党の凝集性である。どんなに「立派な」政策でも、政党がそれを実現する責任を帯びなければ「言いっぱなし」に終わる。政党を政策によって紀律化すること、有権者には「脱無党派」の試練を課すこと。これがマニフェストの政治文化である。
 政権選択選挙の扉が半分ではあれ開いた後のステージでは、バッジをつけない主権者の政党活動への参加の諸問題を実践的に扱う力が試される。口利きを求めない有権者がみずからの代表をつくるために政治参加する―この政治文化の入れ替え戦の戦場は、03年統一地方選・総選挙を経て、このように設定されている。
 そのキーを握るのは、40代である。バッジをつけた主権者(議員)においては、中選挙区時代をほとんど経験していない世代であり、「政治改革の10年」の間に小選挙区を政策本位で戦い抜き、マニフェストを媒介に「政党本位・政策本位」へとその蓄積を開花させてきた世代である。
 バッジをつけない主権者(有権者、フォロワー)においても、マニフェストに一番主体的に反応したのが、この世代である。年金、財政、金融、子育て・教育、そして東アジアの経済統合。こうした戦略的課題と自ら自身の人生設計がリンクする・せざるをえない部分が、政権選択・政権交代を自分自身のこととしてとらえ始めた。  政権が変わって政策が変われば、自分の人生設計にもチャンスが生まれる。こういう生活実感のある層・世代を政策過程に全面的に結び付けていくこと。ここでの「脱無党派」の戦いとは、こういうことになる。政策形成に参加できるという実感、手ごたえをつくっていくこと。ここから新しい大衆運動感覚も生まれてくる。国民主権の政党政治の文化を創る突破口を開くことである。
 一方、55年体制の政治文化を支えるのは、護送船団方式の生活習慣であり体質である。「右肩上がり」のなかでは、エレベーターにのっていれば何もしなくても「上昇」できた。そこには「選択」は存在しない。そこで理解している「政権交代」とは「反自民」のことでしかない。ここからは、マニフェスト選挙―民主党の政権政党への可能性が見えてくるにしたがって、「民主党も自民党と変わらない」という無党派主義の地金がでてくることになる。
 戦後日本の虚ろとは、こうした時代や社会の変化と自力で向き合ってこなかった生活習慣、主体形成の結末であり、世代で言えば団塊世代の大半とそのジュニアの問題である。(主体の格差は世代で論じられるものではないが、日本では「世代の違い」として見えやすい。) 
 ここでの「脱無党派」の戦いは、戦後の総務責任連鎖の結末(小泉政権のていたらく)を見て反省するという範疇の責任意識から、マニフェストにふさわしい責任意識への転換である。すなわち政策目標に対する数値目標、工程表などによって検証可能な責任意識である。(政党でいえば、綱領・政策の一般的承認のみならず、組織計画に対する具体的な一部署=持ち場の責任を明確にする、ということ。)
 04年の「脱無党派」の試練は、戦後日本の虚ろ、総無責任連鎖に対する反省一般のステージから、マニフェストの政治文化=国民主権の政党政治の文化を創りあげていく(バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者との共働作業で)ステージへと舞台を変えつつある。

小泉・棄民政権を国民主権の力で追い詰めよう

 04年度予算案では、「改革断行」予算という掛け声とはうらはらに、新規国債発行が過去最大となる。歳出の50パーセント強にとどまる税収の穴を埋めるための赤字国債発行であるが、まさに「守るべきもの」を明確にしないままに「改革」の絶叫の下、先送りと破壊を繰り返してきた失政の結末が、つじつま合わせさえできないまでに露呈している。1兆円の負担増となる税制「改正」とも併せ、まさに小泉・棄民政権である。
 小泉マニフェストで掲げられた「改革の目玉」はどうなったか。道路公団民営化は、なんのことはない、看板をつけ変えて、赤字の道路を作りつづけ借金の山を築き続けることとなった。年金改革は、負担増・給付減で先送りしただけ。制度に対する不信をさらに深める結果になった。三位一体改革は、数字合わせで「補助金1兆円削減」をはじき出したものの、先のみえないまま地方に不安を残すものとなった。
 マニフェスト自体のいいかげんさと同時に、実行する意思・責任のなさ(自民党はマニフェストに一致して責任を負っていない)からすれば当然の結末である。まさにマニフェストが問うものの核心は、政党の責任性である。したがって有権者にも、マニフェストがいかに実行されたのか・されていないのかから、政権を業績評価することが求められる。これがマニフェスト選挙の最低限の基本ルールである。
 例えば「道路公団」である。小泉マニフェストには「民営化委員会の意見を基本的に尊重」と書いてある。これ自体があいまいではあるが、首相も了承した国交省の具体化案が、民営化委員会の意見とは基本的な方向性において程遠いものであることは、二委員が辞任、一委員が委員会出席を見合わせ、残ったのは二人だけという民営化委員会の状況を見れば明らかだろう。
 にもかかわらず「これは改革だ」と言い続けられるのは詐欺師か、そうでなければ「責任」という概念がいっさいない、戦後日本の虚ろを凝縮した人格だろう。自分が言ったことにいっさい責任を負わないどころか、それを正当化するための屁理屈には能弁になり、肝心なことははぐらかす。小泉政権を構成するのも、またそれを支持するのも、そうした社会層にほかならないことが、ますますはっきりしてくる。
 小泉・棄民政権を国民主権の力で追い詰めるためには、マニフェストで政権を業績評価するという、政党政治の文化を有権者のなかに定着させるために、小泉・棄民政権の諸問題を扱うすべを心得なければならない。とりわけ小泉政権下での新規参入層=総選挙で増えた自民党の比例三七二万票に象徴される=には、その教育の型をもって主体的分岐を促進していかなければならない。政党政治の基盤がないとは、自分の言ったことから自分自身を検証するという生活習慣さえない、ということだ。マニフェストで政権を業績評価するという政党政治の文化を有権者のなかに定着させるためには、そこまで深く耕さなければならない。
 同時に、依存と分配の政治文化のなかからも、これ以上の棄民には付き合えない(これではメシが食えない)という離脱が始まる。戦後日本の総社民化(分配の政治)のなかから生まれた「依存と分配」の政治文化のなかに、亀裂が入りつつある(例えば野中氏はその象徴)。
 この亀裂に上手に対応できなければならない。その指針は、何を守り(継承し)、何を破棄すべきかを明確にもつということだ。「守るべきもの」を明確にした改革の力こそが、改革派vs抵抗勢力という虚構を突き崩す。戦後政治のなかでつくられた国民主権の基礎条件(市民社会の物質的基礎)を守り、それをさらに発展させる(自立した市民社会へ発展させる)ためにこそ、抜本的な改革が必要であると。そしてだからこそ、利権政治・依存と分配の政治文化は断ち切るのだと。
 これは政策的にはイラク問題ともあわせて、社会保障や政治とカネといった問題で、自公の間に揺さぶりをかけることにもつながる。
 政権交代とは、小選挙区で51パーセントを獲得するということである。マニフェストの政治文化を主体化できるコアの有権者を、バッジをつけない主権者として固めることは重要であるが(それが欠けては何にもならない)、それだけでは足りない。新規参入組や依存と分配からの離脱組、さらには旧革新系や公明系などからも支持を獲得しなければならない。
 いいかえれば、民主党のバッジをつけた主権者は、自分に投票しなかった有権者の思いも組み込んだ活動をすべきだということになる。民主党の政策方向とはズレのある、しかし小泉・棄民政権には不安を感じる有権者が、自分たちの目線や思いも組み込まれている(二大政党によって排除されるのではないのだ)と感じられるような活動をしながら、自分たちのマニフェストのウォンツと政策を説明できなければならないということだ。
 こうした複雑系の活動を、裏取引や持ちつ持たれつではなく、政治理念と政策から説明できる―ここにコアの有権者がバッジをつけた主権者へと飛躍していく道場がある。ここでバッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者が、政権交代にむけた組織計画を共有することである。

政権交代にむけた飛躍の課題
マニフェストの深化を

□イラク・外交安全保障
 イラクへの自衛隊派遣は、小泉政権の「先送り・逃げ」の最たるものであろう。総理はこう言うべきであった。「イラクへの自衛隊派遣は憲法も逸脱しているし、特措法の枠組みも超えている。しかし日米同盟は重要であり、自衛隊派遣を政治決断した。この判断は憲法からも特措法からも説明できないものである以上、全ての責任は政府が負う。よって自衛隊は全力で任務をまっとうしてもらいたい。この政治判断の是非については、総選挙で国民の審判をあおぐ」と。
 基本計画が閣議決定され、自衛隊が派遣される以上、政治の議論も「戦闘地域か非戦闘地域か」(特措法での派遣の前提)という法律論で、これ以上立ち往生しつづけることは許されない。
 「自衛隊イラク派兵は、政治指導者がどちらの決定を下したとしてもそれぞれに重要な決断であったと思う。それだけに、小泉首相のリーダーシップにはきわめて重いものがあり、派遣理由の国民への説明が重要になる。同時に、反対論にも、反対のための材料を拾い集めるだけの反対論ではなく、イラク情勢をめぐる国際政治をどのように理解し、今後の日本外交をどこに導くのかという根幹からの立論が求められる」(「外交問題としての自衛隊イラク派遣」添谷芳秀・ファカルティフェロー  http://www.rieti.go.jp/jp/featured/special_report/015.htmlより)
 有権者・国民が求めているのはこのことであり、与野党はこれに答える責務がある。とくに小泉政権が「逃げの一手」である以上、民主党には政権政党への飛躍が試される。二大政党制が定着するためには、外交でも現実を正面から見据えた戦略論争が求められる。それがあってこそ、時には外交を政局にしても、それが国益を害することにならないというまでの二大政党制の成熟が可能になる。
 第一には、イラク派遣の具体論である。軍刑法が存在しないわが国で、戦地での軍隊の行動をどう法的に担保するのか。特措法の前提である「非戦闘地域」という虚構にとらわれていては、現に派遣されている自衛隊員は守れない。
 第二には、国際安全保障にかかわる恒久法である。これはすでに有事法制の与野党協議で合意されているが、その制定を先延ばしにすることはできない。今回のイラク派遣のようなことを繰り返せば「法治国家」とは言えない。
 あわせて言えば、防衛大綱の策定を先送りして、わが国の防衛の基本的ありかた・姿がみえないまま、ミサイル防衛計画だけを決めるというやり方もまた、責任性・信頼性に著しく欠けるといわざるをえない。その場しのぎのやっつけ、できるところからとにかく、ということで国防を扱うことは厳に戒めるべきではないか。
 第三に、恒久法とも関連して、憲法改正である。衆参の憲法調査会は05年1月で、当初予定の議論期間である五年をむかえる。参院選後の04年後半は、方向性をまとめるべき時期だ。ここまでくれば、総花的なものではなく九条にしぼって、国際社会とのかかわり方、自国の守り方について明確な指針を出し、それを次の総選挙で問うべきだろう。90年代の変化と蓄積に一定の方向を与えるべきである。それをこれ以上、先延ばしすべきではないし、国際環境もそれを待ってはくれない。
 第四に、わが国の外交として東アジア戦略を鮮明にすべきである。日米基軸は与野党共通であるが、東アジア戦略が見えているのといないのとでは、「日米基軸」の意味が全く違う。日米同盟の再設計と日中関係の再設計をリンクさせる地域戦略、同時に中国も視野にいれた東アジアの経済統合、そのステップとしてのFTA(自由貿易協定)、その戦略からの国内産業の再編・強化戦略(FTAと農業再生をむすびつける/FTAとわが国の「モノづくり」の高度化など)をもつべきだ。中国を見るまでもなく、グローバル経済へのコミットと国内の構造改革は一体のものである。このダイナミズムを日本再生のために活かす戦略をもたなければならない。
□歳入の構造改革
 04年度予算案は、虚ろな改革の総破綻にほかならない。歳出の構造改革が進まないまま、そのツケが歳入欠陥(赤字の増大)として積みあがり続け、歳入のほうもつじつま合わせが破綻した(年金、税制)。
 政権交代では、歳出の構造改革(税金の使い方を変える)ことと同時に、歳入の構造改革(税制、社会保障費など)にも切り込むことが求められる。毎年チマチマと税制をいじり、租税特別措置や細々した減税措置などで利権を配分する。ここには「贈収賄」に問われない合法的な政官業癒着が温存されている。
 同時に、つぎはぎだらけの税制は、公正・公平からも程遠い。政治とは税金の集め方と使い方を決めるものであり、納税者=有権者であるという基本原則が貫かれるような、国民主権の税制への抜本改革が必要であろう。
 また民主党マニフェストで道路公団廃止を掲げて一石を投じたような、財投融資と特別会計の不透明な闇にも切り込む必要がある。一般会計予算の枠内での構造改革(歳出の構造改革)だけでは間に合わないところまで、失政のツケは回っている。
 この失政のツケをいかに受けて立つのか。政権政党への飛躍には、ここが問われる。そのためにも参議院選挙では、一味違う政策綱領を提示してもらいたい。すなわち制度上、参院選は政権に直結しないからこそ、数値目標や期限などに縛られない、戦略的な方向性を提示することで、政権担当能力への信頼性を高めることである。
 04年、国民主権の力で、小泉・棄民政権を追い詰め、民主党の政権政党への飛躍のステージを拓こう。