日本再生 295号 号外 2003/11/15発行

政権選択選挙の扉は、半分開いた
主権者のうねりでさらに前へ!

〜総選挙の総括と参院選へむけて〜

マニフェスト選挙の舞台は回り始めた
有権者と政党はどう鍛えられたか

 自民党と民主党がマニフェスト(政権公約)をかかげて政権を争った今回の総選挙で、わが国の政治は新たな段階に入ったといえる。「政治改革十年」にして、国民が選挙によって政権を選択する―政権選択選挙が現実味を帯びてきた。政権選択選挙の扉は、半分開いたといえるだろう。
 政権交代可能な二大政党制の実現をめざして小選挙区制が導入された時には、世論の動向はあったにしろ、基本的には国会内の(議員族の)多数派形成で決着がつけられた。しかしマニフェスト選挙・政権選択選挙の舞台は、有権者が参加してはじめて回り始める。マニフェストによって、有権者の選挙への参加のしかた・関わり方は、これまでとは大きく変わった。
 例えば、電話かけでの主婦の反応は、「(マニフェストのことは)毎日テレビでやってるから、私だって聞いてるわよ。選挙ってこんなに難しかったっけってみんな言ってるわよ。今までは『お願いします』『ハイハイ』ですんだもの。(マニフェストのポイントを話したことに対して)わざわざ電話してくれてありがとう。選挙の電話って、こんなにしゃべってるの?」というものだった。
 あるいは党首クラスの応援演説が終わった後、マニフェストを手にした聴衆同士が「年金問題」について論議するという、かつてなかった光景も見られた。
 マニフェストは、政党に対しては政策によって自らを紀律化する責任を問う(「言い放し政治」からの脱却)とともに、有権者に対しても「脱無党派」の試練を問うものである。今回の選挙で有権者のなかに確実に、「好き嫌い」や「白紙委任」ではなく、マニフェストを手がかりにして自分なりに検討し、判断基準や判断材料をもって一票(政権選択の一票)を投じようという流れが顕在化してきた。
 「政権公約をてこに政党政治の体質改善を図るということは、政治に対する過大な期待から自由になるとともに、政治の底なしの無責任を絶対に容認しないという立場に立つことを再確認することである。政権公約は冷静にしかも明確に政治を判断するための基準であり、国民がみずからの判断の根拠とその責任を自己認識するための重要な手がかりである」(佐々木毅・東大学長10/7日経「経済教室」)
 自分の一票をどういう理由で投じたのか、有権者は判断基準を持っていることは、事後の世論調査にも表れている(読売11/12)。民主党の躍進については、「自民の勝ちすぎを望まなかった」「野党の票が集中した」がそれぞれ約三割、「民主党の公約が評価された」が約二割、「民主党に政権を任せてもよい」は9パーセントにとどまった。
 一方、与党については「自公の選挙協力」が約三割、「小泉首相への期待」「民主党に政権を任せられない」がそれぞれ約二割で、「自民党の公約が評価された」は8パーセントにとどまっている。
 またマニフェストを投票の「参考にした」人は約四割、「しなかった」は約五割であるが、自民党支持層では「参考にした」が四割弱、「しなかった」が約六割なのに対して、民主党支持層では「参考にした」が六割、「しなかった」が四割弱と、逆転している。
 政権選択選挙が、これまでの選挙と根本的に違う点は何か。それは権力をめぐる争いが、密室の談合・裏取引で行われるのではなく、それなりの政策的な方向付けのなかで行われ、しかもそれが有権者の選択によって決せられる、という点である。こうして政党がマニフェスト=政権公約を掲げて有権者に政権選択を問うとき、国民もまた、無党派を気取っていつまでも判断の先送りをしているわけにはいかなくなる。
 マニフェスト・政権選択選挙は無党派を再編(脱無党派)することで、国民と政党政治との関係を再構築する糸口となった。約七割が二大政党化を「望ましい」(前出・読売)としているのも、こうした背景によるものだ。
 有権者と政党の関係も変化せざるをえない。政権選択の一票を投じるための判断基準や判断材料を持とうとしている有権者に向かって、語るべきものを持っているか。その力があるか。ここで候補者と政党が問われる。
 終盤戦、「見極めよう」としている有権者に向かって「お願い」の絶叫や連呼しかできない候補者のところでは当然、マニフェストは最後まで封も解かれずに山積みになったままであろう。政策を訴えて票を獲得するという選挙戦の型を持っていなければ、「候補者名の入っていない」マニフェストに、何の価値も見出さないのは当たり前だ。最後局面では、確実な組織票固め(一番「固い」のは公明票)にしか目がいかない。そうした選対は、普通の有権者には近寄りがたいものとなる。
 小泉総理の「党改革」の柱のひとつは、「組織選挙に頼るだけではなく、無党派層から支持されなければ選挙は勝てない」というものだ。問題はその「無党派層」に何をどう訴えるのか、である。マニフェストを媒介に、政権選択を訴える型を持っていなければ単なる「人気」に流れる。小泉総理の応援演説と菅・民主党代表の応援演説とでは、集まった人々の光景は大きく違っていた。
 前者ではいっせいにカメラ付き携帯の音があがり、しばらくすると立ち去る人が大勢いる。「前座」の地元議員や候補者が延々としゃべれば、ブーイングが起こる。後者の場合には、買い物客や通行人が立ち止まって、小一時間ほどの演説を立ち去らずに聞いていく。こうした違いは、前出の世論調査の結果にも如実に出ている。
 政権選択選挙の扉が「半分」ではあれ開いたのは、政党と有権者のこうした新しい緊張関係(「言い放し政治」と「白紙委任」からの脱却―脱無党派の試練)のとば口が開かれたからである。残り半分の扉を開けるためには、マニフェストに反応できる有権者に継続的に訴え、彼らに日常的に政治参加の場を提供し、ともにマニフェストを深化させていく活動=バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者(フォロワー)との共同作業=を、さらに推し進めなければならない。その力と蓄積の度合いが、来年の参院選(小泉マニフェストに対する業績評価)ならびに次期総選挙への展開を決めることになる。

投票率60パーセントのカベを突破しよう

 今回の総選挙の事前の各種世論調査では、「関心がある」が前回総選挙より高かった。しかし同時に「必ず投票に行く」は前回を下回っており、投票率の低下が懸念された。結果は予想より低い59・86パーセントに止まった。60パーセント台前半なら、組織票(利害団体プラス公明票)と小泉・安倍効果で自民党に有利、という予想であったが、ほぼそのようになった。
 逆に言えば、あと数パーセントの有権者を投票所に向かわせる力が民主党にあれば、自民党単独過半数は不可能になったであろうし、二大政党化にとどまらず、政権交代のリアリティーは大いに増したであろう。さすればイラクへの自衛隊派遣について、臨時国会が終わった後に閣議決定、などという姑息なやり方を許さないまでの緊張感を、政治にもたらすことができただろう。
 マニフェストに対する関心の高さと、実際の投票率の低さ。この落差を埋めるのは実践的な活動以外にない。マニフェストはこれまでの「あれもやります、これもやります」「お任せください」式の公約に比べて、「あそびの少ない」きわめて実務的なものである。普通の人が一人で読みこなすのはなかなか難しい。
 しかし今回はじめての試みではあったが、メディアでは各党のマニフェストを比較検討する材料をさまざまに提供した。またシンクタンクや全国知事会、経団連なども「政策評価」を行ったり、その基準を提示したりした。そして論戦の過程で、与野党ともにマニフェストを深化させていった(例えば年金について数値モデルを提示したり、消費税について踏み込んだり)。民主党ではそれらを踏まえた「追加項目」も発表した。
 こうしたなかでマニフェストに関心をもつ(はじめは「物珍しさ」からでも)有権者に比して、候補者・選対・支援する地方議員などのマニフェストに対する主体的関心はどうだったか。
 「マニフェストには候補者の名前がでていない」という程度の認識では、マニフェストを手がかりに判断材料を得ようとする有権者の目線とは、完全にミスマッチということになる。 「お願い」の絶叫や連呼では「マニフェストでは民主党のほうがちゃんとしていると思うけれど、ここの候補者はちょっと…」と有権者はソッポを向く。
 マニフェスト選挙・政権選択選挙の舞台は、有権者が参加してはじめて回る。どんなに「立派な」「出来のいい」マニフェストをつくっても、それを有権者に伝え、そこに有権者を組織していくのは個々の候補者であり、選対である。そこがマニフェストに相応しいものとしてつくられていなければ、有権者を参加させ、ともに舞台を回していくことはできない。
 マニフェスト選挙に相応しい選挙戦・組織戦を展開できる組織と活動家(人)が圧倒的に足りない。今回の選挙戦のなかでは、マニフェストのポイントを相手に応じて的確に伝えることができれば、確実に集票に結び付けられることが実践的にも明らかになった。「脱無党派」の試練を受け入れる有権者の政治文化の土壌は充分ある。そこに何かを訴え、行動に結び付けていく国民主権の活動家の圧倒的不足――ここが投票率60パーセントのカベなのである。
 ここをいかに突破するか。そのための人材は、マニフェストに反応できる、「脱無党派」の試練を受け入れる自覚的な有権者のなかからつくっていく以外にない。そうした有権者が選挙の時に自分が「自覚的に」一票を投じることにとどまらず、日常的に政治に参加する・できる場を提供し(ともにつくり)、彼ら自身に「組織者」としての役割を担ってもらうことである。
 政党政治が定着するかどうかは、普通の人が家族同士で、あるいは職場の同僚同士、ご近所同士で政治について話題にし、自分たちで議論することが当たり前になる、ということであり、政党に所属して活動することが珍しいことではなくなる、ということである(わが国がそこまでいくには今少し時間がかかるだろうが)。
 わが国の政治不信は、既存の政治ギョーカイがあまりにも国民の政治文化とかけ離れてしまっているところに根源がある。「政治とカネ」の問題はその表出形態にすぎない(本質問題を含んではいるが)。この政治不信は、政治文化を入れ替えるための活動に実際に参加しない限り、払拭できない。政治を変える行動に参加せず、「傍観者」のままでどのように「有権者としての自覚」を深めたとしても、そこからは選挙のときにはせめて棄権だけはしないことを自分自身に課す、という以上の能動性は生まれない。
 政治を変える行動、そのことを他者に訴える行動を伴わない「関心の高さ」は、きわめてひ弱なものである。そこに常に行動を提起し、そのための場をつくり、力強いものに育てていくこと(国民主権の政治文化で政党政治の基盤整備をすすめること)。これが、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の課題である。
 自分なりに理解したマニフェストのポイントを家族や友人知人に伝える。「ここをもっとはっきりしてほしい」「これはどうなっているのか」と、政党・候補者に要求する。あるいは報道番組や政治討論番組などを材料に、自分たちなりに「政策評価」をしてみる。さらに重要なことは、「小泉マニフェスト」の進捗状況について、自分たちで議論して業績評価をしてみる。それらについてさらにそれぞれが他の人に伝え、議論する。
 このような「普通の有権者」の活動家をそれなりに(できるだけたくさん)育成して、来年の参院選を迎えるのと、その準備がまったくなくて迎えるのとでは、マニフェスト選挙の舞台回しは大きく違ってくる。
 民主党の足腰の弱さとは、ここの問題である。マニフェスト選挙の総括は、それに相応しい組織・人をどうつくるのか、その糸口をどこまでつかんだのかとしてなされなければならない。
 自民党は組織票の弱体化を公明党によって支え、同時に小泉・安倍人気による無党派対策で補強する、という方法だ。マニフェストも、「逃げていると見られては損だ」というだけのことだから、「公約が評価された」も8パーセントということになる。それでも今回自民党は、比例では前回より三七二万票を増やし、小選挙区での得票も下げ止まらせた(公明党との選挙協力でも比例票は減らなかった)。これに競り勝つ地力をどうつけるのか。
 民主党のマニフェストは自民党のそれとは質が違うことは、有権者にも評価されている。それに相応しい組織をどうつくるのか。その糸口をつかむものとして、今回の選挙戦を総括しよう。マニフェストに関心のある有権者が恒常的に政治に参加する場、他者に対して訴え、発信していく活動の場をつくることが伴わなければ、院内で小泉マニフェストの進捗状況を厳しく、的確にチェックできたとしても、それを有権者に伝える自前のルートは持てないことになる。ましてそれでは、参院選さらには次期総選挙にむけて国民的な世論を起こしていくことはできない

参院選にむけて問われる
「小泉マニフェスト」の業績評価と、
民主党の政権政党への脱皮

 政権公約を掲げた以上、小泉政権にも絶叫ではなく公約の実行・実績が厳しく求められる。来年夏の参院選では小泉マニフェストの業績が厳しく評価される。同時に民主党にも、単なる野党第一党の存在感にとどまらない、政権政党への脱皮が問われる。
 小泉政権の業績評価を厳しくチェックすることと、自らのマニフェストをさらに深化させていくこととがむすびつかなければならない。そしてマニフェストの深化をわかりやすく伝えるとは、その過程に主権者をまきこんで、そのうねりで伝えていく型(組織)をつくるということである。政権(権力)をめぐる争いを密室の裏取引ではなく、公開された場で政策によって方向付けるものがマニフェストである以上、その深化とは単なる(数値などの)精緻化ではありえない。それは政権の基盤をどこに求めるのか、その政策によってどういう社会層の支持を得るのかなどが、より明確に「見えてくる」ということである。そして現状の経済社会関係―人間関係を、どこからどのように変えるのか、ということが「見える」ということである。
 例えば今回話題になった「道路公団の廃止と高速道路の無料化」について。自民党はもっぱら「財源問題」から批判したが、それに対して財源をより精緻に正確に答える、というのはマニフェストの深化にはならない。例えばこの問題を、特殊法人改革・特別会計の廃止・財政投融資改革の突破口として提起し訴える型を持っていれば、誰の・どういう層の支持を獲得するのか、誰の・どういう層のウォンツを集約するのかという組織戦略が見えてくる。
 これがあって、「民営化」法案の内容・進捗状況をチェックする場合と、なくて小泉政権の「公約違反」を追及する場合とでは、争点化の意味が大きく違ってくる。
 このような観点から、いくつか、今後の深化を期待する問題を提起したい。
 ひとつは今回、与野党ともに物足りなかった、わが国の外交戦略である。とりわけ台頭する中国を視野にいれた東アジア戦略を、やはりきちんと打ち出すべきだ。これは「わが国がどう生きていくか(どうメシを食っていくか)」に直結する。中国も含めた東アジアにおける経済統合は、否応なしにすすむ。にもかかわらず、この地域におけるFTA交渉にわが国は出遅れたままであり、本来「やりやすい」はずのメキシコとですら、交渉は難航している。理由は簡単で、政治が本来の役割(対立する個別利害を国益の方向にまとめ、調整する)を果たしていないからである。
 FTAでは農業がネックだと常に言われる。しかしここでいう「農家の利害」とは何か。農業鎖国のままではたして、産業としての農業の再生はありえるのか。こうした問題をはっきり提起して、FTAと農業鎖国の打破―農業の再生を一体のものとする戦略をかかげるべきだろう。農業土木の補助金にぶら下がるのではなく、自立した農畜産業経営を行いたいと願う農民に、明確に選択肢を提示すべきである。無農薬や有機の高級農畜産物のマーケットは、韓国・ソウルや台湾、中国大陸沿岸部などに広がる東アジアの中間層のなかに充分ある。
 自民党の農林関係族議員の基盤は、農業の振興にあるのではなく、農業土木補助金のバラマキにある。ウルグアイラウンド対策費が、農業振興にではなく土木工事にばら撒かれたことは、よく知られている。だから民主党のマニフェストでは、おなじ補助金をだすなら農家に直接渡すほうがよい、とした(これは農業政策というよりも、中山間地の環境保全政策という側面の問題でもある)。さらに一歩すすめて、FTAと農業の再生を、わが国の東アジア戦略のなかで語りきることである。
 参院選では、自民党には業界団体・族議員がズラリと並ぶ。ここでいわゆる旧来、自民党の基盤と言われてきた農業票に、「有権者としての」選択を求める、そのための選択肢を示すべきだ。とくに民主党が弱いといわれる中国、四国、九州には、米作だけの兼業農家ではなく果樹、畜産などの専業農家も多い。
 また、イラク問題に焦点化されている新しい国際秩序形成に、わが国としていかに関わるのかという問題についても、責任ある枠組みが示される必要があるだろう。「アメリカにどこまで協力するか」という話に終始することは、そろそろ卒業しなければならない。「自衛隊を出します」とその場の勢いで表明した後、「情勢を見極めて」と言いながらズルズルと先延ばしするというのは最悪である。「わが国はこういう基本的なスタンスに立つ、ゆえに今は派遣しない」というほうが、国際的にも(もちろん国内の論議でも)ひとつの立場としては認知されうるだろう。だがその場合、日米関係をどう再設計するのか、国連にどう働きかけるのかなど、わが国としてのかかわりを「アメリカにどこまで協力するか」という枠組みを卒業したところで明確に提示する必要がある。
 さらに今回は踏み込めなかった郵貯・簡保の改革についても、基本的な問題設定までは整理する必要があるし、年金についてもこのままではこれまでどおりの「手直し」に流れかねないので、超党派での議論をさらに深めていく必要がある。
 また地方分権についても、「三位一体」改革の中身が来年度予算のなかで明らかになるが、これに対する業績評価とあわせて、改めて補助金の削減額に止まらない、地域自立のグランドデザインを争えるような争点設定をしていく必要がある。
 そして来年度予算をめぐる論戦のなかで、「小泉マニフェストの構造改革とはなにか」「官から民へ」とは何か、「民主党の掲げる構造改革とはなにか」というグランドデザインの争点化を図ることである。(税金の使い方を変えるということの背景には、社会ビジョン・ウォンツの違いが根本的にある、ということまでを「見せる」。同時に「大きな政府か、小さな政府か」で違いを分かったつもりになる余地を一掃する。)
 ほかにも政策課題は多々あるが、マニフェスト選挙を通じて、政策の違い・対立をグランドデザインをめぐる争点化にまで深めるとともに、この政策によって、現状の経済社会関係―人間関係をどこからどこへ変えるのかが「見える」ようにマニフェストを深化しよう。こうしたマニフェストの深化過程を「見せる」ことのできる支持基盤(理解するとともに、それをそれぞれのやり方で他者に伝播していくような支持基盤)を、この総選挙の総括のなかからつくりだすことである。こうした展開を通じて、参院選・次期総選挙を迎え撃とう。
 政権選択選挙の扉は半分開いた。主権者のうねりでさらに前へ。