日本再生 294号(民主統一改題24号) 2003/10/1発行

政権公約(マニフェスト)による政権選択選挙へ
脱無党派―有権者の試練の秋

政党に政権公約を要求しよう

 自民党総裁選で小泉総理が再選され、政治の舞台は十一月に予想される総選挙に移った。次期総選挙は「久しぶりに」、有権者が政権を選択する場(政権選択選挙)となりつつある。すなわち、自民党vs新民主党という二大政党の構図が生まれ、政権公約(マニフェスト)―政策をめぐって選ぶという舞台設営が進みつつある。(森前総理は小渕総理の急死後「密室談合」で選ばれた。その森総理を担いで総選挙を戦ったにもかかわらず、自民党は参院選に向けて小泉総理を総裁に選んだ。つまり次期総選挙は有権者がはじめて小泉政権への審判を下す機会となる)
 民主党と自由党は十月五日の合併大会にむけて、九月十八日には政権公約の第一次集約を発表した。民主党ではこの政権公約に誓約することが、候補者公認の条件となる。政権公約が従来の公約と決定的に違うのは、「政党(候補者)が全員一致して国民に約束しているか」という点にあるからだ。
 小泉総理が「郵政、道路公団民営化」を叫ぶ一方、地元の自民党公認候補は「郵便局をなくすな、高速道路は全部つくれ」と言って、ポスターや選挙公報には「小泉総理とともに」などと書いてある、というようなことでは有権者は選択しようがない。政権公約は「言いっぱなし政治」を終わりにするために、政党に明確な責任を求めるための道具である。
 自民党総裁選は、政権公約選挙の前哨戦として注目されていたが、残念ながら、政局テクニックを駆使した小泉総理が圧勝し、政策論争としては見るべきものはほとんどなかった。解散総選挙をちらつかせて「選挙の顔」を選ばせるという小泉陣営の作戦が奏効し、「小泉の政策には反対だが、選挙の顔は小泉しかない」という流れが全面にでた。言い換えれば、自民党は政権公約から遠ざかりつつあり、むしろ「人気取り」で選挙をやり過ごそうとしているともいえる。有権者もずいぶんバカにされたものだ。
 政策には期待できないと多くの人が思っているが、支持率は高い――こうした「民意」こそが問われる。「政策」に関係なく「人気」や「好き嫌い」で政治家・政権を選ぶ有権者とは何だろう。政権公約は、無党派の熱狂や自己満足に終わりを告げるという脱無党派の試練を有権者に求めるものでもある。
 自民党内抵抗勢力を相手にしているぶんには、「改革」を絶叫していればそれなりの「芝居」にもなるだろう。しかし次期総選挙で求められるのは、小泉改革vs菅改革の選択である。改革に賛成か反対か、ではなく、改革A対改革Bの選択である以上、明確で責任ある選択肢を示せなければ責任政党とは言えない。
 今のところ、小泉総理の唯一の公約とも言えるのは「郵政、道路公団民営化」であるが、それを次期総選挙における自民党の政権公約にできるのか。早くも麻生総務大臣は、「郵政民営化を総選挙で自民党の公約にするのは無理」と言い始めている。総裁選で選ばれた(しかも圧勝)総裁の公約を「無理だ」という人を入閣させるようでは、小泉マニフェストを党公認の条件にする、などということはとても覚束ない。
 小泉総理が本気で「郵政、道路公団民営化」をやるというなら、それを公認の条件にすればよいのである。公約が「言いっぱなし」になるのか、それとも責任あるものになるのかは、そこで決まる。それ以外は無責任な言い逃れにすぎない。「言いっぱなし」であるなら、郵政、道路公団民営化についてまっとうな政策論議は成り立つはずがない。
 「自分が再選されればその公約が総選挙での党の公約になる」と小泉総理はいい、青木参院幹事長も今回の総裁選で小泉総理を支持したのだ。「政策には反対だが、選挙の顔は小泉しかない」というのは、政権公約に書き込むことではないし、「抵抗勢力が協力勢力になる」かどうかは、小泉マニフェストを党公認の条件にすればすむことだ。
 これが政権公約の意味である。有権者は次期総選挙にむけて、こうした政権公約を政党、とりわけ政権政党に要求しよう。自公保連立政権が前提であるなら、自公保でひとつの統一した政権公約を掲げるべきである。選挙の時はそれぞれ「独自」のことを言っておいて、選挙が終わってから身内で調整するというのでは、「白紙委任」に等しいではないか。
 「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)は総選挙で全政党が政権公約を示すように求める緊急アピールを発表した。政権公約には達成期限や財源など具体的な目標を盛り込み、公認候補者に「連帯責任」を負うことを誓約させるべきだとし、とりわけ自民党には早急に政権公約を策定すること、責任ある党内指導体制を確立するためにも、小泉総裁が先の総裁選で掲げた公約や方針を党の政権公約とするよう求めている。
 政権公約(マニフェスト)による政権選択選挙――この土俵に政党、とりわけ政権政党を上がらせよう。責任ある政権公約を提示できない政党に、「白紙委任」で政権を任せることはできない。

政策評価・業績評価で政治家・政党を選ぼう

 解散を控えた臨時国会の論戦は、有権者に与野党の政策を評価する材料を提供する貴重な場である。しかし冒頭の代表質問では、はしなくも小泉総理の「逃げ」が目立った。
 例えば「郵政民営化」について、民主党・菅代表は、「郵貯、簡保をどうするのか」と迫った。それに対する総理の答弁は、例の絶叫調で「民主党も郵政民営化方針を言ったらどうだ、言えないで官僚の既得権を破壊できるか、私は歴代首相のできなかった方針を示している」とまくしたてた。二年半前、就任当初の演説とどこが違うのか。違うとすれば、その勢いのなさ、だけだろう。
 第一、議論だけならもう何年もやっている(自民党のなかでできなかっただけのこと)。郵政公社化は橋本政権の時に決まったことであり、政権をとって二年半もたってまだ結果がでないというのは、やる気がないということか。「党内の反対で…」というなら、次期総選挙の自民党政権公約にきちんと盛り込んで、それを公認の条件にすればよいだけのこと。それをやるのかやらないのか。
 第二、民主党が「郵政民営化」をどう考えているか、ではなく政権の業績評価(言ったことがどこまで実行されているのか、されていなければ理由は何か)が問われている。権力を持っている与党と持っていない野党とでは、説明責任の大きさが違うのは当然であるということが、よくおわかりでない。
 第三、「郵貯、簡保をどうするのか」について、「これから検討する。そういう細かいことまでいちいち総理が決めることではない」と答弁したが、これは失格である。三五〇兆円にのぼる郵貯、簡保をどうするのかは、「細かいこと」どころか郵政民営化の「本丸」の問題である。このことに対する基本方針を持たずに、専門家(官僚も専門家)の検討に任せるというのでは、政治はいったい何を決めるのか? 何に責任を持つのか?
 選挙後に検討する、というのでは選挙のときに有権者は「白紙委任」を求められるということではないか。
 イラク支援をめぐる問題でも同様に、小泉総理からの答弁は聞かれなかった。十月に来日するブッシュ大統領が、イラク復興について日本の協力(資金、自衛隊派遣)を求めてくるのは確実であるにもかかわらず、そのことに対する判断基準を一切示さないで、国民に何を選択しろというのであろうか。
 あるいは国民の関心が高い年金問題をどう政策争点にするのか(できるのか)。年金保険料の納付率が六割、すなわち四割の人が保険料を払っていない事態は、すでに制度がもたなくなっているということである。しかもその理由は、「将来、年金をうけとれないだろう」という制度に対する不信である。政治の信頼回復のためにも、与野党がこの問題を真剣に取り上げて、国民の選択を問わなければならないはずである。
 民主党は、政権公約に最終的に年金問題についての考え方を盛り込む見込みである。年金制度は政権交代のたびに変えるような性質のものではないので、与野党でしっかり合意して五十年先を見越した制度設計にしなければならないという意味で、一政権の任期中の数値目標にはなじまない。したがって、党としての考え方というようなものになるであろう。
 自民党はどうか。厚生労働省案、財務省案と官僚の案はあるが、自民党はここでも選挙後、「今年中にまとめる」という以上のことは何も言っていない。これでは選挙のときには「白紙委任」ということになる。個々の候補者のなかにはそれなりに勉強していて、「自分の考えはこうだ」と言える者もいるかもしれない。しかし政党としての考え方がまったく見えない(誰も責任を持たない)ようでは、選択しようがないではないか。
 政権公約選挙とは、責任ある政権公約が政党によって提示されることが前提である。しかしそうしたものが提示されなかった場合でも、有権者が政策評価・業績評価で選ぶということなのである。例えば先の年金問題のように、自分にとって関心のある政策分野について、与野党の政策を比べて、「政策目標」「実行力」「責任」などについて自分なりに採点表をつくってみるとよい。
 候補者の活動を目にする機会もこれから増えてくるが、そうした視点からもぜひ採点してみよう。疑問に思ったらどんどん質問してみよう。どう答えるかも、採点の対象になる。あらゆる機会に、われわれ有権者が「政策評価」の目で見ていることを示していこう。
 政策評価の視点は、各方面にも広がりつつある。経団連は九月二十五日「優先政策事項」とそれに基づく政策評価を、企業の政治献金(候補者にではなく政党本部への献金)の判断基準とするよう提唱した。
 また地方分権をめぐっては、自民党案「補助金二十兆円のうち四兆円を廃止、うち八割を地方へ委譲」(削減対象、委譲税源とも明記せず)に対し、民主党は「補助金十八兆円を地方へ」(身近なところで税金をつかうことでより有権者のチェックを働かせる)をうちだしているが、全国知事会や21世紀臨調・知事連合や市長連合もそれぞれの立場から、政策評価の具体案を打ち出しつつある。
 こうした政策評価の動きと同時に、小泉政権にとっては初めての総選挙であり、ここで業績評価を問うべきである。二年前と同じ絶叫ではとうてい説明責任を果たしているとは言えないが、それも業績評価のひとつになる。
 政権交代というのは、A政党が失敗したら(業績が悪ければ)B政党にやらせてみるということである。安倍幹事長は「執刀経験のない民主党が政権をとったら日本は死んでしまう」と言ったそうであるが、執刀経験があってもそれが依存と分配の執刀経験なら、おかしな延命治療だけがダラダラ続く一方で助かるものも助からないというのが、小泉失政ではなかったか。政官業の癒着を断ち切る執刀経験は、自民党にはないことははっきりしている。ならば、その可能性がある民主党にやらせてみればよいのだ。失敗すれば政権交代――ここから政権政党にも野党にも、責任政党としての緊張感が生まれてくる。そのためにも、政策評価、業績評価で政治家・政党を選ぼう。

政権公約に求められる政策目標―政権のめざすもの

 政権公約に求められるのは、政権の任期中に必ず実行すること(数値目標や財源、手段などを明記したもの)と、数値目標化することになじまない問題(一政権だけで決められない年金問題のような政策領域、あるいは外交のように相手のある政策領域、さらには財政再建のような政権任期を越える時間を要する問題など)について、政党の基本的な考え方や政策目標を示したものである。
 民主党の政権公約第一次集約は、主に前者の政権任期中の数値目標を整理したものであり、結党大会において、より広い意味での政策目標が示される見通しである。
 一方自民党においては、そのような整理されたものができるのかどうかも不明であるが、現在少なくとも年度程度は数値化したものは「郵政民営化(〇五年法案提出)「道路公団民営化(〇四年通常国会法案提出)」程度である。
 「名目成長率二パーセント」という目標については、「名目成長率」というのは算出方法次第で動かせる数字であること、個人消費、設備投資、政府支出、外需(輸出マイナス輸入)の四つの伸び率の合計であることから、ジョブレス・リカバリー(雇用なき成長)でも名目成長率は上がりうるため、民主党は「より生活で実感できる数値」として「失業率を四パーセント台前半に」(現在は五パーセント台前半)を目標としている。
 また地方への補助金については、自民党は「二十兆円のうち四兆円を削減、うち八割を地方へ」としているが、削減する項目、委譲する税源については「来年度予算編成で決める」として結論を先送りしている(ここでも選挙時に有権者は「白紙委任」を求められることになる)。
 このようにみていくと、自民党の政権公約(と思われるもの)では、「郵政民営化」や「道路公団民営化」のような超ミクロの問題が、改革の目玉となる一方で、地方分権や経済政策については、その掲げる目標がどのような政策目標につながるのかが分からない。そしていきなり「結党五十周年を迎える〇五年までに憲法改正案をまとめる」という超マクロ(?)の公約(山崎副総裁が小泉総理から指示されたとしている)が飛び出してくる。
 つまり本来の意味のマクロ政策がスカスカなのである。これでは有権者は、「郵政民営化」
や「道路公団民営化」がいかなる改革につながるのか見えない。そしてじつは、こうした政策が見えない度合いで、「改憲に逃避する」わけである。
 「天下国家を語ったほうが楽なのではないでしょうか。具体的な問題が回避できますから。特殊法人を潰すよりは改憲を言うほうが、彼らにとっては易しいと思います。タブーに挑戦するポーズをとっていても、彼らにとって一番タブーになっている部分、例えば利益誘導や派閥政治を解消するといったことは避けている。彼らは改憲に『逃避』しているのだと思います」(小熊英二・慶応大学助教授 朝日9/9)
 改憲というのはある意味で、言いっぱなしでも誰からも責任が問われず、それでいて改革の先頭にいると思っていられる「便利な」スローガンである。(もちろん、集団的自衛権の問題を正面から解決しようとすれば、憲法改正は必要である。しかしそれは、責任政党間の議論が成り立つことが前提であって、責任ある政権公約を提示できない・しようとしない政党が持ち出す性質のことでは断じてない)。
 政権公約選挙では、数値目標に表された政策(それを実現する責任性)とともに、数値目標化にはなじまないが、その政権が何を目指しているのかを示す政策目標を併せて、有権者には選択を問わねばならない。
 民主党の第一次集約では、政官業の癒着を断ち切る―税金の使い方を変えるという点はかなり明確に打ち出されている。こうした予算編成を四年(政権の任期は最大で四年)続ければ、かなり違った風景が見えてくるであろうことは明らかである。
 政官業の癒着というのは、個別の汚職や口利き、水増し公共事業などという問題に止まらない、わが国の経済構造(資源を不効率分野から必要分野・成長分野へ投資する)に関わる問題である。政官業の癒着で育った執刀経験では役に立たない。政官業の癒着と戦ってきた実績に執刀させるほうが可能性はある。
 問題は、その先に何が見えるのかである。すなわち、政権のめざすものをどう提示するのか。
 三点だけ注文をつけたい。ひとつは年金と消費税である。年金改革はもはや先送りできない。これに対する考え方をきちんと示してもらいたい。その上で与野党の真摯な議論を通じて合意を目指し、国民の信頼回復に努めるとしてもらいたい。
 それと関連して消費税についても、「白紙委任」を求められては困る。責任層ほどが、将来を考えれば、年金の財源として消費税を充て、税率アップは避けられないと考えている。もちろん前提は、歳出の徹底した見直しと制度の信頼性・公正性である。現在の経済情勢での消費税率引き上げは論外であるが、将来、どういう目的で、どういう条件が整えば、ということを考え方としてでも示すべきではないか。