日本再生 286号(民主統一改題16号) 2003/2/1発行

日本再生に向けたわれわれの構造改革、われわれの政権交代戦略を
日本再生への自信と覚悟を戦いとる年

「失政十五年」から日本再生への転轍を戦いとる政治決戦の年へ

  国会論戦が始まった。前国会は「学級崩壊」とも称される惨状であったが、今国会では野党・民主党の緊張感が、論戦を活性化させつつある。離合集散と先送りの繰り返しという「政治不況」の打破は、日本再生のための必須条件である。
 その意味でも、小泉総理の「この程度の約束を守れなかったのは大したことではない」との発言は、政党政治の前提そのものにかかわる重大な問題である。政党・政治家の公約が意味をなさないとすれば、有権者・国民と政治・政党との信頼関係そのものが成り立たない。
 この「政治不況」はいわば慢性的な生活習慣病であり、旧い生活習慣からの脱却―政治文化の入れ替え戦なしに、手品のように一気に変えることはできない。
 今年は選挙の年だ。四月には統一地方選挙が行われ、解散総選挙の可能性も取りざたされている。選挙の現場において、依存と分配から国民主権の政治文化へと入れ替える、その政治決戦の年としなければならない。この組織戦のなかから、日本再生への覚悟と自信を戦いとろう。
 公約は、いわば国民と政党との契約である。それによって政党の「集団としての紀律化」が担保されねばならず、同時に公約がどのように履行されたのか・されなかったのかという「業績評価」で投票するという「有権者の紀律化」が図られなければならない。
 イギリスでは、できないことを公約することは公約を破るより罪が重いとされている。冷徹な経済見通しや国際情勢の分析もなしに、思いつきのようなスローガンを並べて「これが公約だ」という政治文化では、亡国の道である。
 日本再生への転轍を賭けた政治決戦として解散総選挙を迎え撃つためには、第一に、政権の青写真としての公約集(何を、いつまでに、どのように、財源はどうする等)とそれに基づく「政党の紀律化」が不可欠である。昨年の民主党代表選以来の経験は、その「核」を生み出すための試練として総括すべきであろう(今号・前原議員インタビュー参照)。そして第二に、公約に基づいて政治家・政党を業績評価するという、有権者の政治文化(新しい生活習慣)を育まなければならない。それを促進できるのが、国民主権の活動家である。
 自治体選挙は、こうした「政治家との契約」を身近に体現できる場でもある。「環境にやさしい」「住み良い町づくり」といった中身のないスローガンに、この先四年間の地域の生き残りは任せられない。起案書に必要とされるような内容なしに「あなたに任せる」とはならない。こうした常識を政治の現場に通用させるために、統一地方選を国民主権の政治文化への入れ替え戦の舞台としよう。このなかで政権交代の基盤整備―責任と信頼の主権者運動をおしすすめ、日本再生への転轍を賭けた政治決戦を準備しよう。
(今号付録「統一地方選を、国民主権の政治文化への入れ替え戦として戦おう〜主権者のすゝめ」を活用してください)

新たな時代の社会ビジョンとウォンツから、われわれの構造改革を語ろう

 構造改革は政権交代によってこそ可能である、というのは政党政治の常識である。言い換えれば、時代の変化に照応して、新しいウォンツからこれまでの政治社会経済のシステムを変えることが構造改革である以上、新しいウォンツの側が旧いシステムから権力を奪う(政権交代)ことなしには実現できない。
 政権交代にまで民主主義が成熟した社会では、いわゆる外交・安全保障とならんで、社会保障、税制といった問題が政権交代のテーマである。すなわち時代の変化を反映した新しいウォンツから新たな社会ビジョンを提起した側が政権をとるということであり、それなしにNATOをどうする、EU統合をどうするといったテーマだけで政権交代が起こるわけではない(EU統合をめぐる争点は多くの場合、社会政策に関わっている)。
 わが国ではまだ、旧来の社会経済システムの破綻(多くの場合、財政的破綻)から「構造改革」が提起されることが少なくない。例えば年金改革においても、これからの社会ビジョン、そこにおける社会的公正や連帯を担保する制度設計とは何か、というところからではなく、財政的破綻にどう対処するか、という角度からの議論が圧倒的である。
 一方では財政的破綻の不安ばかりが強調され、他方では「安定的財源」としての消費税引き上げだけがクローズアップされるという論議では、「どういう社会を目指すのか」というウォンツの合意形成は抜け落ちて、制度への信頼が崩壊するだけである。
 税制もしかりである。税は国や社会のあり方を決めるものであるにもかかわらず、「次の社会ビジョン」が見えないままに、毎年毎年小手先の「特例措置」を積み重ねる一方で、途方もない財政赤字を抱え込むということでは、普通の国民にとっては不安感・不公平感だけが増幅される。
 年金制度改革のような、「次の時代の社会ビジョン」にかかわる制度設計は、新しい制度への移行を決めたとしても、その移行過程には二十年、三十年かかる。だからこそ、このままではもたないと分かっている今、「将来に対する責任」を問える世代が改革について合意しなければ、間に合わないのである。
 先が見えない、一年先の生活設計さえたたないという状況では、普通の人が「将来に対する責任」を落ち着いて考えることなどできないのは当然である。小泉政権の空虚な「改革」の絶叫では、日本再生のために残された時間も経済的条件も食い潰されるとともに、主体的条件(主権者としての責任意識の基礎条件)すら、破壊されていくのである。
 今から五年後の日本はどういう社会だろうか。団塊の世代が退職期を迎える。地方自治体の退職金財源の破綻は間違いないし、年金の受給も大幅に増大する。人口はピークを過ぎて減少に向かい、経常収支も赤字に転落することが予想される。また小渕内閣が実施した景気対策の財源である大量の国債が償還を迎える。そして高度成長期に造成した大規模社会資本(高速道路、新幹線、公団住宅、ビルなど)が更新期を迎えるが、需要は確実に右肩下がりである。
 冷戦体制下での「特別扱い」で高度成長してきた惰性のままでは、いよいよ破綻が確実な今、必要なのは「次の時代の社会ビジョン」から新しい制度設計を語りきることである。そして「だからこそ、旧いシステム、制度をこう変える」と言い切ることである。
 年金制度では財政的破綻以上に、制度に対する不信の増大が問題であり、そこにつながる世代間の不公正・対立を是正しえない仕組みが問題である。現状の何が問題なのか、それをどういうウォンツからどう変えるのか。そこを正面から論じることができる「政党の核」と、それを受け止められるだけの主権者の成熟を、いかに促進していくかが問われている。
 その一助として、今号では中塚一宏・衆院議員(自由党)と古川元久・衆院議員(民主党)の「戸田代表を囲む会」でのお話を掲載した。社会保障を保険方式でやるか、税財源でやるかという問題の以前に、次の社会ビジョン・ウォンツから税や社会保障を論じるという政治文化とは何かを共有したい。
 税制も社会保障も「これが完全だ」という制度はない。それぞれの制度のメリット、デメリットや利害のトレードオフ関係を十分理解したうえで、「どういう社会を目指すのか」ということから、もっとも納得できる制度を選択するのである。だからこそ政権交代のテーマとなるのであり、そのためには公約集(マニフェストと称される体系的な政策パッケージ)が不可欠になる。
 ウォンツなき依存と分配の政治文化の基礎のうえでは、財政的破綻を取り繕うための消費税引き上げ、というところに議論は矮小化される(されつつある)。それにとって代わる、次の社会ビジョンから税や社会保障を論じることのできる政治文化を育み、依存と分配の政治文化との入れ替え戦を推し進めることこそ、国民主権の活動家の役割である。
 税は民主政治の基礎であるから、予算審議にもフォロワーとして参戦すべきである。予算は政権の施政方針の反映であり、どんなに改革を叫んでも、予算配分を見ればその実際がどうなのかは明らかになる。さらに一般会計のみならず、特別会計や財政投融資も含めた財政全体の現状をとらえようとすれば、依存と分配の仕組み・政官業の癒着の権力基盤がどこにあるか、さらにはっきりする。
 言い換えれば、パフォーマンスや「抵抗勢力」との掛け合いに対してではなく、予算や財政に表れている事実に基づいて政権を業績評価するという、国民主権の政治文化を手にしなければならないのである。そこからこそ、政権交代可能な野党を育てることもできる。
 自治体においても財政危機は深刻な問題であるが、ここでも一番肝心なのは、情報公開と住民参加であろう。「一番良い」政策というものはない。必ずメリット、デメリットがあり、何かをやろうとすれば、何かを削らなければならない。問題は市民が納得して選んだ、ということが担保されているかどうかであり、そのために必要な情報が(財政であれば、「隠れ借金」まで含めて)きちんと公開されているかどうか、なのである。
 新たな社会ビジョンから税制や社会保障を論じることができる、国民主権の政治文化への入れ替え戦を推し進めよう。

グローバル化の影と光を再統治する東アジアの新たなステージを、日本再生の舞台に

 わが国をとりまく環境、とりわけ東アジア情勢もまた大きく変化しつつあり、わが国の立場・問われる役割も「日米基軸」と唱えてさえいればよいという思考停止状態では、ますます対応不能になりつつある。
 ひとつは中国の経済的台頭である。〇二年度の貿易統計(速報)では、中国の貿易大国としての台頭ぶりが、改めて明らかになった。安い労働力と大量生産による「世界の工場」としての輸出圧力は、「デフレの輸出」を招きかねない一方で、わが国が四年ぶりに貿易黒字を拡大できたのは対中輸出の伸びによるという、一大消費地としての存在感も増している。
 こうした中国の台頭に対してわが国は、「脅威だ」「いやチャンスだ」とだけ言っていられる立場なのだろうか。言い換えれば、中国の台頭を可能にしたグローバル経済の発展のなかでわが国に問われてきたことは、「自分のメシが食えるかどうか」「いかにキャッチアップするか」ではなく、東アジアに「より開かれた市場経済」を発展させるためのリーダーシップ、その責任意識への転換だったのではないか。
 依存と分配の政治では、その時に既得権をいかに守るかという姿勢に入り、「内向き」になるのは当然である。その結果、政官業の癒着は肥大化し、市場経済とはほど遠い「日本型社会主義」が全面開花した。これでは新たな国際分業のルールやインフラづくりに役割を果たすどころか、その国際分業に参加することさえおぼつかなくなる。このレベルで「産業再生」を語ったとしても、展望のみえる話にならないのは当然である。
 グローバル経済の進展は不可逆的であるし、中国の台頭も避けられない。その流れの中では大量生産品の価格競争は熾烈になる。雁行型モデルと言われて、東アジアは日本を先頭に順次、大量生産モデルによって発展してきた。今問われているのは、そこからさらに「知価社会」といわれるような新たな市場への発展・飛躍であり、そのためのルールやインフラづくりにおけるリーダーシップ、責任性の発揮である。それが見えないままであれば、東アジア各国は中国の台頭に「脅威」として対処するほかはない。
 新たな市場の発展のためには、知的所有権や信用といった「知的」な資産やインフラのルール化が不可欠である。そういった市場の高度化のためにこそ、わが国の構造改革が必要なのである。国家金融が大きなウェイトを占め、不良債権の責任さえ問えないところには、公正な市場秩序は期待できない。それではHONDAをHOMDAとして海賊版を売りさばく中国に、WTOルールに基づく市場秩序を要求する貫徹力は生まれない。
 七十年代、「土砂降り」とも称された日本の対米輸出攻勢は、日米貿易摩擦を引き起こし、個別品目ごとの交渉が繰り返された。アメリカが制裁を振りかざし、日本は「自主規制」を重ねてきたが、中国の台頭に対しても同じような手法をとるのか。それとも日米が東アジアの中国を含めた新たな市場秩序づくりに「汗をかく」のか。
 少なくとも、日本からアメリカに対するそのような呼びかけはなされていない。大国アメリカは、スーパー三〇一条などを使って個別的に中国の台頭に対処することは可能であろう。だがその場合には、米中の取り引きで東アジアが規定されるという(経済のみならず政治、安保にも波及)構図になる。それはわが国にとって望ましいことか? 東アジア諸国にとって望ましいことか? 
 東アジアに自由・民主主義を深化させ、より開かれた市場経済を発展させる側から、台頭する中国を、いかにこの地域の共通の利益の側に取り込んでいくか。そのために「東アジアの公共財」として再定義した日米同盟をいかに使いこなすのか。このことが九六年(日米共同宣言)以来問われたが、九七年金融危機、九八年「第二の経済敗戦」などをみれば、敗北の連続である。
 日米同盟をこの地域の公共財とするとは、自由、民主主義、市場経済を共有する価値同盟へ再設計するということである。そうであるならわが国から、この地域がめざすべき自由で公正なルールを発信し、またそれにふさわしい国内改革を行うのは当然であろう。そうしてこそ、東アジア諸国の信頼を獲得しうる。そうしてこそ堂々と、反テロ国際協調のためにイージス艦をインド洋に派遣しうるし(冷房=「居住性」などというバカバカしい言い訳をせずに)、東アジアの安定のために何をなすべきかとして、ハードとしての防衛・安保論議も正面からできる。
 イラク攻撃をめぐって国際情勢が緊迫するなかで、いまだに「回りをよく見てから考える」という国は、「先進国」にはない。フランスやドイツがモノ申すのは、同盟国だからこそ、である。反テロ・自由・民主主義という価値観をはっきり共有したうえで、それを具体化するうえでの論争であるからこそ、アメリカの保守派も「それでも彼らは同盟国だ」と言うのである。
 価値観の共有がないところに、信頼関係は生まれない。「委託された協力」という日米関係に、信頼は生まれない。同時に「過去の贖罪」としての「日中友好」にも、真の信頼関係は生まれない。思考停止としての「日米基軸」「日中友好」という冷戦時代の惰性から脱して、自由、民主主義、市場経済という価値観に基づく信頼関係を築くこと、それが東アジアの新たなステージで問われている。
 日本再生の舞台はここある。だからこそ、東アジアの現実から目を背けた内向きの守り(政官業癒着の肥大化)の構造を打破する政権交代を! 東アジアに自由、民主主義、市場経済をよりいっそう発展させるためにこそ、日米同盟の再設計、日中関係の再構築、日米韓の協調、日台関係の再定義などを推し進めよう。