日本再生 284号(民主統一改題14号) 2002/12/1発行

既存政党の機能停止-崩落、さし迫る危機にどう立ち向かうか
国民主権の持ち場につこう

既存政党の機能停止と崩落、
生まれつつある国民主権のウォンツをいかに組織表現するか

  国会が「学級崩壊」状態だ。十一月二十七日には、二つの委員会が定足数割れで審議がストップした。原子力安全関係を審議する経済産業委員会と、拉致被害者支援を審議する厚生労働委員会である。国会は三分の一の出席で、開会可能。与党は過半数を占めているから、野党が全員欠席しても開会は可能である。つまり与党議員が多数、サボっているということにほかならない。理由は簡単。永田町は、来年度予算の分捕り合いをめぐる陳情ラッシュなのである。
 この臨時国会は、第一に金融・経済有事にどう対処するか。第二に北朝鮮の動向にどのように対処するか。(北はすでに核兵器開発を認め、九四年の枠組み合意を潰すことによって新たな「瀬戸際外交」の賭けに出ようとしている。)そして第三に雇用・失業の危機にどのように対処するか。(男性失業率は5・9パーセントと過去最悪、しかも三十五から四十四歳で完全失業者が増加している。)これら内外の危機にいかに立ち向かうのか、その重大さを否定するものは、与野党ともいないであろう。
 しかし、である。永田町―既存政党にはいかなる緊張感も見られない。これだけの「有事」で、そういうことを考えている国民の声が議会に一切反映しないというのは、帝国議会以降極めてまれな状況であろう。まさに、依存と分配の既存政党の機能停止―崩落である。
 にもかかわらず、国や社会全体が崩落したり、戦前のような自暴自棄に突っ込まずにもっているのは、新たな政治文化を持ちつつある国民(「疑似」主権者意識)が生まれているからだ。だからこそ、既存政党の政治市場(依存と分配)は有権者から総スカンを食らって、投票率が24パーセントということになる。(十月の補欠選挙において、千葉は24パーセント。これでは特定の団体と利害関係者のコアしか投票に行っていないという数字。)
 政治に口利きや特定の利害を求めない、「稼ぎ」の自己責任の自覚はあるという国民が、北朝鮮による拉致問題では人権や自由という価値観から「おかしい」と言い、「国民の生命を守る」という基本的責務を果たさない政府を問い詰めた。「たかが十一人くらいのことで国交交渉を止められるか(庶民感情で国益を左右するな)」という外務省の「大きな無理」に対して、「小さき道理」を訴え続けた被害者家族の活動が、国民主権の道理になった。
 あるいはムネオ疑惑では、追及に立った若手議員とともに国民主権から国益を論じ始め、さらに政権交代を自分のものとして考え始めた。あるいは不良債権問題でも、失政の責任を問わずして信用や市場秩序は成り立たないということを、生活実感から感じ始めている。(株価が八千円台とは、失政と責任逃れの貸し剥がしによって、仕事があっても倒産・失業するということが「明日はわが身」という事態。)
 自由、民主主義、市場経済。これらにかかわるウォンツが、次第に「疑似」主権者意識として生まれている。これを政治に反映させるという、本来の政党の機能がマヒしているのである。ここをどう突破・転換していくのか。これが現下の攻防の性格である。
 「疑似」主権者に止まって、ここを突破することはできない。主権者のウォンツを政治に反映させる―その機能を、ほかならぬ主権者自身の力で創りだすことが問われている。永田町の改革派を支持するだけではなく、あるときは叱責し、あるいは励まし、あるいは(国民主権の政治機能をつくる)共同の組織計画を準備する同志として、国民主権の持ち場につこう。

さし迫る危機に、主権者としていかに立ち向かうか
国民主権の持ち場につこう

 今年末から来年春を、われわれはどういう内外情勢で迎えていくのか。
 イラクに対する国連の査察が開始され、北朝鮮との交渉は停滞し、国際環境は独特の「凪」のように見える。内政・経済も、竹中プランの「頓挫」によって金融問題も焦点ボケの様相で、永田町は年末恒例の陳情合戦。
 これはきわめて危うい光景である。嵐はすぐそこに迫っている。
 湾岸戦争時、イラクに対してクウェートからの撤退を求めた国連決議が通ったときに(前年秋)、わが国では、これで戦争は回避されるという楽観論が支配的だった。九四年の北朝鮮有事(核開発、IAEA脱退)、わが国は細川政権から羽田政権に替わった時で、政界再編とやらにおおわらわ。カーター訪朝によって「何かあったらしいと思っていたら、事が収まったらしい、やれやれよかった」というものだった。
 今回はどうか。比喩的に言えば、湾岸の時と九四年の時とが同時に問われるような危機対応が迫られる。集団的自衛権の解釈論議などで、逃げる余地はない(3―12面パネルディスカッション参照)。だが永田町では、有事法制論議はどこかに消えてしまっている。
 金融「有事」はどうか。竹中プランの顛末は、政府には銀行をどうにかする―国有化するにせよ何にせよ―意思も能力もないことだけをはっきりさせた。しかし世界の金融市場再編の波は確実に、日本をターゲットにしている。十一月からの銀行株の値動きは、すでにその予兆であろう。ハゲタカ・ファンドなどと反発している場合ではなくなる。おまけに、経常収支が赤字に転じ、BISの新規制が始まる二〇〇五年は「先の話」ではもはやない。
 雇用保険料率の引き上げが見送られたが、失業問題打開の糸口さえ見えないなかで、このままでは、来年度の雇用保険特別会計は約四三〇〇億円の資金不足となる。穴埋め財源である雇用保険積立金もなくなりかけている。産業構造の転換という長期課題を放置しつづけたツケが、もう目の前の危機として顕在化しようとしている。年金の破綻も「将来の話」ではなくなった。しかし永田町からは、シーラカンス軍団(自民党党税調を指す)をめぐるドタバタと遠心力ばかりが伝えられる。
 かような嵐―破局的な危機にいかに立ち向かうのか。既存政党の機能停止―崩壊は止まらないし、さらに遠心的破局再編に入るだろう。まさに 「疑似」主権者から脱皮して、「主権者として、危機にこう立ち向かう」「こう持ち場につく」ということが問われている。
 依存と分配・総無責任の旧い「統治」機構の崩壊の危機は、「疑似」主権者からホンモノの主権者へ脱皮するチャンス、国民主権に立脚した統治システム(国民主権の政党政治)の可能性でもある。その転轍手としての持ち場につこう。
 主権者の側が、「北朝鮮問題は、自由・民主主義の観点からこうすべきだ」「不良債権は、市場経済の原則からこうすべきだ」「失業問題、セーフティーネットは、新たな社会的公正の観点からこうすべきだ」と言って、国民主権の方針を明確に語り、覚悟を示すこと。それだけが活路である。
 これと向き合えるところから、新たなリーダー意識が生まれる(生まれている)。この国民主権の政治文化と組織文化を共有できるもの(有権者も永田町関係者も)は、既存政党グループの破局的空洞化から飛び交う再編の小話(五十五年体制の変形的再編、それも根拠なきウワサ話の類)に右往左往することはない。
 なぜなら、生まれつつある「疑似」主権者意識(自由、民主主義、市場経済の発展からの潜在的ウォンツ)を政治に反映させるための、国民主権に立脚した政界再編の組織表現をどうとるか、という組織方針が明確に見えているからである。この組織方針から内外の危機顕在化に備えるための、持ち場につこう。

国民主権の政治文化への入れ替え戦を
そのための持ち場につこう

 さし迫る破局的危機、それにどう立ち向かうか。既存政党は、もはや組織として考えることはできない。市場経済の原理原則をどうつくっていくかということがわからずに、税金をどこにバラまくのかという経済政策は、依存と分配―日本型社会主義にほかならない。その場合の「自由」はおねだりの自由、「民主主義」とはどこに金をバラまくかという談合・根回しの民主主義である。この政治文化が、与野党ともいかなる求心力も失って遠心的解体過程に入っている。
 そして「分っている」つもりという者ほどが、「〜〜だ」という責任が問われる言い回しを避けて、「〜〜かね」と逃げる。これが戦後の「教養」である。現状変革がいかに困難かは山ほど説明できるし、そのための「教養」ならイヤというほど持ち合わせているが、国民主権の変革の戦い、政治文化を入れ替える戦い、そして「さし迫る危機に、主権者としてこう立ち向かう」という戦いには、何一つ語るすべを持たない。
 この「戦後の成功物語」こそが今、崩落しつつある。アジアのなかで「唯一の」先進国だと思っていた環境は、「経済大国」の没落とともに危うくなっている。「ならず者国家」との対応において、日本より中国のほうが遅れていると言えるだろうか。中国は「反テロ」を国内弾圧の口実にしていると、「負け惜しみ」を言ったとしても、アメリカの戦略に情緒的に反発するという余地は、少なくとも政策決定過程においては、日本よりずっとないはずだ。
 北朝鮮の核開発が、いかなる安全保障上の問題なのか、小泉総理にも川口外相にも意味が通じなかったのは、事実である。これで、自由や民主主義が分っていると言えるだろうか。(「ならず者国家」への対応は、自由や民主主義の原則にかかわる。判官びいきの余地を入れてはならない。それとアメリカの単独主義とどう付き合うかということは、別次元の問題―パネルディスカッション参照)
 市場経済の発展においても、中国がWTOや国有企業改革、金融財政改革などをクリアしていくにつれて、わが国の位置はこのままでは低下することはあっても逆はない。なんと言ってもわが国では、「お上」が、潰す企業と生き残る企業を選別すると言うのだから。中国は、国有企業も私有企業も、同一市場での競争によってのみ存廃は決まる。これは市場経済の基本ではないのか。
 依存と分配の経済、おねだりの「自由」、談合の「民主主義」―これら五十五年体制の政治文化を、自由・民主主義・市場経済の発展―国民主権の政治文化に入れ替える。とりわけ政治の現場(選挙、後援会、政治家とのかかわり方など)において、組織文化としてまでの入れ替え戦を展開していかなければならない。
 主権者として、その持ち場につこう。
「欲しい商品がない」(投票したい候補・政党がない)と言って投票にすら行かなければ、「
政治」の現場は、依存と分配の政治文化の独占市場になる一方だ。しかし「欲しい商品がないから」何もしないというレベルでは、いい技術や商品は生まれないし、市場での競争も起こらない。競争がないところに、自立も責任も生まれない。「こういう商品が欲しい」と言って、メーカーや技術者に要求して、場合によってはいっしょに開発する。政治家もそこまで育成する―有権者が商品として磨き上げるということだ。
 そのためには、国民主権の基準から、候補者の格付けも必要だろう。教育次第だとなれば、カリキュラムもつくらなければならない。政策や公約の策定も共同作業にしなければならない。選挙の現場をこういうものに変えなければ、投票率24パーセントの選挙の構造は変わらない。
 例えば、こうした主権者の政治文化を共有できる仲間を三人以上つくって、選挙事務所を「仕切る」。自分以外の私的な自覚(「疑似」主権者意識)と仲間になるためには、「目的」「方法」を共有しなればならない。「目的」「方法」を共有する関係は、私的なお友達ではなく「同志」であり、政党的信頼関係の始まりである。そこでは、「企業社会における責任」(仕事を通じた責任)以上の責任(パブリックの「務め」をめぐる責任)を共有すること、そういう人間関係を築くための戦いがある。これはもう、選挙互助組織・利権共同体という既存政党の組織文化とは、まったく次元の異なる組織文化である。
 政治家との関係も、政策や理念があるのは当たり前。一般的なスローガンを公約と勘違いしているなどは問題外で、「何を、いつまでに、どのように」ということがあってはじめて公約と言える。これはビジネスの起案書では当たり前のことで、これがなくて「あなたに任せる」とはならない。なぜ「政治」の世界では、その常識がなくても「おかしい」とならないのか。
 これでは責任の問いようがない。責任のないところに信頼は生まれない。そういう世界としか付き合わなければ、そういう世界から票を集めることになるのは当然である。仕事の責任感もないところに、「稼ぎを超えたパブリックの務め」をめぐる責任と信頼など生まれようはずもない。ここを変えていかなければならない。
 政治の現場を国民主権の常識に入れ替え、政治家を国民主権の常識に合わせられる者に入れ替えていく。これを十年やり続ければ、政治文化の構造が変わる。次の選挙ですぐ変わるというものではないが、だからこそ十年やり続けるためには、明確な「戦略」と「仲間」を持たねばならない。「急がば回れ」の国民主権の戦略であり、主権者革命の綱領―組織―戦術である。そして、国民主権の活動家としての仲間である。これが「がんばろう、日本!」国民協議会の役割にほかならない。
 国民主権の政治文化への入れ替え戦、その戦略から小泉「自滅」政権をめぐる政局の攻防を、日本再生・国民主権の再編へと転化しよう。その組織計画を共有し、そのための持ち場につこう。