日本再生 282号(民主統一改題12号) 2002/10/1発行

政権交代の力強き主体基盤へ、戦列を整えよう!
10・27 第2回全国大会へ そしてわれわれの構造改革

一歩前進二歩後退
「疑似」有権者・「疑似」市民社会・「疑似」市場から脱皮する戦い

  民主党代表選挙の顛末や、訪朝パフォーマンスによる内閣支持率急上昇など、わが国ではじめての、国民主権の力による政権交代を巡る攻防は、まさに一歩前進二歩後退の局面にある。
 民主党代表選挙では、政官業癒着を打破し新しい政治文化を築くべく若手が決起し、「お任せ」ではなく「政権交代のために自分に何ができるのか」と問い始めた意識あるフォロワーがそれに呼応しようとした。しかし結果は、五十五年体制そのままのものとなった(小泉改造内閣と比較しても、こちらのほうが五十五年体制的手法・発想に漬かりきっており、旧政治と手を切るという意識性の完全欠如が露呈した)。
 小泉総理による訪朝パフォーマンスは、国内改革の手詰まりを外交の目くらましで延命しようという、わが国の国運にとってきわめて危険なもの(「日本再生」二八二号)であり、その「成果」も大いに問題がある(本号三―四面「論評」参照)が、世論の圧倒的な支持により、内閣支持率も急上昇した。
 民主党代表選の顛末と訪朝パフォーマンスによる支持率回復という「追い風」を受けて、内閣改造は小泉主導色の濃いものとなった(大幅改造を求める与党内を「抑え」て、「抵抗勢力」と渡り合う小泉総理を手堅く盛り立てる脇役をバランスよく揃えた)。
 まさに、政権交代をめざす国民主権の成熟・その一歩一歩の前進に水を差し、寸断・分散させる各種の波状攻撃の開始である。
 だが、これらのなかで敗北したものは、責任と信頼の主権者運動ではなく、「疑似」有権者運動の枠内にとどまっていた「変えたい」であり、生まれつつある矜持あるリーダーとフォロワーがまだ、振り捨てることができなかった人物や観念、計画にほかならない。言い換えれば、これらの目くらましの波状攻撃に打ち勝つなかからのみ、「疑似」有権者運動から本格的に脱皮しうる。その新たな戦場が目の前に拓けているのである。

 われわれは小泉政権の性格を、「疑似」構造改革政権(「疑似」政権交代)と規定した。これは小泉政権が「ウソツキ」であるとか「ニセモノ」であるといった単純な意味ではない。命脈が尽きつつある自民党政治=依存と分配・政官業の癒着が、延命のためにも「構造改革」という看板を掲げざるをえない(他の延命策は断たれた)ということである。
 したがってホンモノの改革派にとって、問題はこう立てられる。小泉政権が「疑似」の枠に収まらなくなるとすればそれは、まだ残されていた日本再生のための条件を最終的に食いつぶす時である(昨年九月二十三日 第一回大会基調では「小泉政権の四つのキ(景気、人気、元気、危機管理)のバランスが崩れるとき」としている)。例えば株価で言えば、小泉政権発足から今日までに約一五〇兆円がふっ飛び、先延ばししてきた不良債権処理は「やっても地獄、やらなくても地獄」という選択に追い込まれた。
 旧政治が「改革」という看板を掲げて延命をはかっている間の時間を、「疑似」有権者運動の“終わりの始まり”―責任と信頼の主権者運動に向かって舵を切る(本年二月幹事会テーマ)ために使いこなすことができるか。これが、ホンモノの改革派に問われる「時空間の一致」である。
 そのための戦術は、一方で政官業の癒着を(金権腐敗糾弾のレベルではなく)権力問題として追及し、政権交代の核心問題に高め=政権交代なくして構造改革なし・政権交代こそ日本再生の第一歩=同時に、そのための主体基盤としての国民主権の成熟=「疑似」有権者からの脱皮=を組織するというものであった。
 民主党代表選挙における野田・前原氏に代表される若手の動きに、こうした国民主権の成熟がいったん組織集約されるかにみえたその時に、まさに「水をさされ」「目くらまし」にあったわけである。
 ここであきらめたり、がっかりしたり、やる気をなくしたりしているようなら、その程度の「変えたい」でしかなかったということである。その程度なら、本当の危機が迫っている(経済はどん底、イラク攻撃も緊迫等)時に、沈みゆく船のうえで小泉劇場に拍手を送ったり、したり顔で評論したり、ワイングラスを片手にオペラ鑑賞でもしていればよいのである。
 まさにこれらの波状攻撃に打ち勝つなかからのみ、「疑似」有権者運動から力強き政権交代の主体基盤へと、本格的に脱皮しうるのである。「疑似」改革でもなにかしら、と思えていた「奇妙な均衡」は崩れつつある。分ったふりの評論ではなく、生活の生き残りをかけたところから、「変えたい」は噴出する。
 株価が九千円にまでなれば、不良債権や天文学的な財政赤字といった、これまで庶民にはなかなか実感しにくかった問題が、生活の場面で実感されるようになる―生活設計が立たないという形で。デフレは単なる価格破壊ではなく、仕事があっても倒産する事態として立ち現れるようになる。バラマキでなんとかしのぐという程度の話ではなく、権力を入れ替えなければ前へ進めないという実感が、地べたから生まれてくる。
 国際政治では、イラク攻撃が焦眉の課題となりつつある。アフガン戦争では、アメリカの要請ということでの自衛艦インド洋派遣で「首の皮一枚」をつないだが、イラク攻撃はそうはいかない。ここには北朝鮮問題もからむ(訪朝によって不利にからませた)。二十一世紀前半の国際社会の行方、わが国の生き方を左右する。早い話、「日米同盟重視」と唱えていればすむという時代はとっくに過去のものであり、このままでは対米関係も対アジア関係も(とくに日本経済の再生にとっては東アジアは生命線)回らない。
 この外交の脳死状態は誰によって暴かれたのか? ムネオ疑惑から利権・保身政治が国益を食い物にしていることを追及してきた若手議員であり、決定的には北朝鮮に拉致された被害者の家族の矜持ある姿勢と行動ではなかったか。
 「外交・国益にかかわることを庶民の心情で左右するな」「十一人くらいのことで国交正常化交渉を止められるか」という論理のなかには、大きな公益のためには小さな無理に目をつぶるのがオトナというものだ、という「したり顔」が透けて見える。これは東電の原発検査結果隠蔽や、雪印・日ハムのニセ牛肉などと同じ構図ではないか。そこで言う「公益」とはじつは、目先の小さな自己利益・保身でしかない。
 こういうわかったふりの「構造改革」、したり顔の「疑似」有権者、そこに咲いた「改革」の人物や観念、計画―これらの目くらましに打ち勝つことによって、国民主権の成熟はより力強いものとなる。来る補欠選挙、来春の統一地方選挙、そして次期総選挙を準備していく攻防は、このような性格のものとなろう。

自由・民主主義の発展−国民主権の能動性から当面の政権綱領を語れ

 「日本を救う」という矜持あるリーダーとフォロワーは確実にうまれつつある。問題はそれを、当面の政権交代綱領としてまとめあげていく統合能力の未成熟である。民主党代表選(決選投票)の結果から、ただちにここを獲得する戦いに入らなければならない。
 端的に言えば、二、三位連合(菅・野田)という選択をとれなかった統合能力の未成熟であり、若手の一本化(野田・前原)においても「留保」されていた問題を、本格的な政権交代綱領として克服していくことである。逆に言えば、このことが克服されなければ肝心なときに、政官業の癒着と戦うという最小限綱領すら分っていない鳩山に、これまでのいきさつから投票するということになる。
 これは、「次の総選挙(代表の任期中に必ずある)を考えれば鳩より菅だ」という目先のソロバン勘定だけではできない。政官業の癒着を断つという当面の政権奪取を外して、「菅さんとは憲法観が違う」というのでは、それがどんなに「正しい」改憲の提起(国民主権の発動としての改憲)であったとしても、政治家とは言えない(学者ならよいが)という批判は、当然成り立つが、問題はその先にある。
 今回の代表選ではマスコミが言うほど、憲法は争点ではなく、むしろ菅氏が「改憲を全面的に否定しない」という「現実的護憲」の立場をとっていることが注目される。
 戦後の硬直した護憲対改憲はいわば「遺恨試合」の構図であり、国民の多数とはかけ離れた議論であった。「現実的護憲」とはこの遺恨試合の構図から脱する一歩である。戦後憲法の三原則を尊重し、またその下での戦後をプラスとして肯定し、戦前の誤りを反省することを基本として、(憲法が想定しなかった)新しい事態にあわせて必要なら変えることもやぶさかではないというのは、国民、とりわけ戦後世代の大人の多数意見でもあるだろう。
 問題はここを、「論憲」(論じるのはよいが変えるのはダメ)などということと同居させずに、国民主権の発展として憲法改正を正面から論じる舞台に、どのように統合するのかということなのである。「(三原則を遵守したうえで)必要なら変えることもやぶさかではない」という憲法論は、あくまで受け身のものである。ここから主体的な発信は難しい。 
 憲法すなわち国のありようについて、国民が主体的に考える国民的改憲論議ができずして、国民主権の成熟とは言えないだろう。その主導性、戦略性、統合能力が問われている。改革保守の戦略性とは、そのことにほかならない。それは、「戦後リベラル」の卑怯さに対する根底的な批判であると同時に、依存と分配に帰結した「戦後保守」に対する根底的な批判でもある。
 国民主権の発展として憲法改正を正面から論じるために、何が求められるか。それは自由・民主主義を発展させる歴史総括の論理である。
 戦後日本は、戦前の誤りの総括のうえにあるのではない。「保守」も「リベラル」も「軍部のせい」にしてリーダーとしての総括・責任を回避し、「東京裁判史観」とそれへのアンチという空中戦へ逃げ込んだ。「国策の誤り」を直視しないところから、新たな歴史をつくることは不可能だが、同時に「戦前は軍国主義、戦後は平和と民主主義」という人為的断絶からは、自らを見失うことになる。「国策の誤り」を直視することと、誇りを回復することとが結びつく歴史総括の論理だけが、新たな時代の主体性となりうる。
 すなわち戦前の「国策の誤り」は、明治以降の近代化の歪みを是正することが可能になる歴史段階(アジアに自由と民主主義の価値観で目線を共有できる時代、日本が“図抜けたナンバーワン”ではなく“アマング・イーコールズ”になる時代)に、近代の総総括を語りうる主体となる―ここで克服するということである。
 同時に、戦後日本は、占領軍による全体主義国家の解体から始まって、「疑似」市民社会、「疑似」有権者、「疑似」市場経済に到達した後、今日、その「疑似」から脱却する戦いが問われているということである。
 欧米の戦後(政治、経済、社会)は、全体主義(ナチズム、スターリン主義など)との闘争の教訓の上にたっている。その上で「ポスト冷戦」期の試行錯誤を経て、今日の転換(グローバル化の“影”を再統治する)を迎えている。
 わが国の「疑似」からの脱却は、一挙にそこに直面しており、「疑似」がそのまま「全体主義国家顔負け」の総無責任連鎖として崩落するのか、それとも自由・民主主義のアジアにおける発展に、新たな一章を付け加えることができるのかが問われている。そのためには、「疑似」にまで持ってくる過程で何を忘れてはいけないのか(「虚ろ」に帰結した敗北の教訓)、そして「疑似」を脱皮するために何が問われているのか(構造改革の本筋)を語れる歴史総括の論理を持たなければならない。
 アジアにおける全体主義国家の解体は、ヨーロッパのような人民革命を経ずに、権威主義体制が自ら「改革」を通じてソフトランディングするという道をたどっている(韓国、中国、台湾など。日本の場合は敗戦・占領軍という「外圧」を必要とした。北朝鮮も何らかの形での「外圧」は不可欠)。この「改革」は、国家が国民生活を丸抱えし管理するという体制から、私的領域・市場を拡大していくという性格である(「社会主義市場経済」という言葉は、この移行過程を素直に表している)。
 わが国においては、下部構造における私的領域は無限大に拡大した。おかげでパブリックということを完全に忘れた「カラスの勝手」が横行している。しかし上部構造においては、日本型社会主義は依然として堅牢であり、政官業の癒着は温存されたままである。
 GDPの六割が中央・地方の政府関連で占められている経済は、自由主義の経済か? 国内貯蓄の七割を国が使う(国債・地方債・特殊法人借入)という仕組みは、自由な市場経済なのか? 政権交代のない政治体制を民主主義といえるのか。政策立案は官僚機構任せ、政治的なウォンツを鮮明にした戦略立案のできるシンクタンクが存在しないという状況はまさに、上部構造における日本型社会主義そのものではないのか。構造改革とは、まさにこの構造の改革である。
 国民主権を憲法にまで貫く―この能動性・主体性から、当面の政権交代綱領―政官業の癒着を断ち切る―を語りきることが問われている。経済の危機的状況や、イラク問題の緊迫化などの新たな局面でのなかで、こうした政策展開能力を磨こう。そして分ったふりの「改革」の小話ではなく、「われわれの構造改革」についての合意を形成し、政権交代の力強い主体基盤を打ち固めよう。

「がんばろう、日本!」国民協議会の使命をはたそう

 すでに述べているように、「がんばろう、日本!」国民協議会は、昨年の第一回大会以降、小泉「疑似」改革政権の“終わりの始まり”を、責任と信頼の主権者運動の“始まりの始まり”へ、政権交代の主体基盤の成熟へと提起し、そのように活動してきた(定例講演会、「囲む会」、街頭宣伝、その他)。
 訪朝パフォーマンス、民主党代表選挙、小泉内閣改造という一連の動きは、そうした政権交代の主体条件の成熟に対する寸断・目くらましであるが、同時に今後予想される「有事」(経済の危機的状況、イラクなど)のなかでは早晩、違う形態で問われる問題であったのも確かである(それゆえ、十一月の定例講演会は「日米同盟の再設計―安全保障から考える」を準備している)。
 「がんばろう、日本!」国民協議会は、このように、国民主権で政権交代をするために必要な理念上、理論上、政策上の論点を整理することで、さらに「変えたい」のウォンツを力強いものにしていく。
 同時に生活のなかから生まれる「変えたい」を、政権交代のエネルギーに変えねばならない。すなわち「われわれの構造改革」の上部構造上のさらなる整理と同時に、大衆的な変革のエネルギーを組織する国民運動の組織戦略であり、それを心得たリーダーと活動家の育成である。その裾野には、政治参加の多様な主体ルートを創り出していかなければならない。
 来る補欠選挙、そして来春の統一地方選挙は、「追い風」がない分さらに鮮明に、こうした政権交代の主体基盤の成熟を問うものとなる。従来の「政権交代」論のなかにあったあいまいさ・できあい性を問わねばならないが、それを越えることは「ホンモノ」の同志・仲間の関係を築くチャンスである。「風」を見て擦り寄ってくる人を拒む必要はないが、そういう人たちの本来の位置が見えることは悪いことではない。(これまであいまいだった)敵―友―味方の関係を再整理し、陣容を整えるなかで、国民主権の主体的フォロワー、活動家、リーダーを輩出していこう。
 十月二十七日の補選は、その最初の攻防となる。候補者をリクルートするという政党の基本的機能が枯渇しているという自民党の現状は、何ら変化していない。「民主党がどうこう」というグチをこぼさずに、「変えたい」という自分のウォンツに正直にという、自己責任を最低基準にした人たちを糾合することができるなら、勝機はある。この組織戦をやりきる地力、ここに「普通の人」の共感を巻き込むまでのエネルギー。それをわれわれから創りだそう! 草莽崛起とはそのことである。
 十月二十七日、「がんばろう、日本!」国民協議会第二回大会に集まろう!
 補選のある地域では野党系候補に投票して、午後からは砂防会館へ!