日本再生 275号(民主統一改題5号) 2002/3/1発行

小泉「疑似」改革政権の”終わりの始まり”
責任と信頼の主権者運動で、
われわれの構造改革とそのための権力を創りだそう

政治改革なくして構造改革なし

好き嫌いではなく、政治家の職責を問え
 小泉「疑似」改革政権の“終わりの始まり”、それは国民としての自覚と責任に基づいて、あるいはそのことを問いあいながら、政権問題を論じるという国民主権の新しいステージの幕開けである。「鈴木宗男」問題は、その転換点となった。
 言い換えれば、国民としての自覚と責任を問いあうコミュニケーションの型をもたない「族議員・利権の告発、糾弾」や「政権批判」は、有権者のはるか後方に退けられることになる。もちろん「トカゲのシッポ切り」で事を収めようという相変わらずの政治手法では、国民に見捨てられるだけだ。
 外相更迭に対して、「無理が通れば道理が引っ込む」と多くの国民が感じた。政治家を「好き嫌い」ではなく、「道理と無理」から判断しようという、新しい有権者意識が生まれるや、政治や社会、パブリックをめぐるコミュニケーションの質が、大きく変わる。「鈴木宗男はおかしい」と、街頭宣伝でも相手から積極的に言ってくる。鈴木宗男のような政治家が、好きか嫌いかではなく、政治家の職責としてあれはおかしい、間違っているという「政治表現」をもちつつある。
 好き嫌いではなく、政治家の職責を問う。そのためには少なくとも、フォロワー、一国民としては「稼ぎ」と「務め」が分っていなければならない。自分で稼いで食う(税金にぶら下がるのではなく)、そして自分の「務め」を社会的に表現できること。この生まれ始めた国民としての自覚と責任意識と、政権問題をめぐってコミュニケーションできるのか―小泉「疑似」改革政権の“終わりの始まり”とはそのことにほかならない。

鈴木宗男のなにがおかしいのか
 衆院予算委員会の参考人質疑において、田中前外相は、個々の事実関係でのあいまいさはあったが、国民主権・生活者の視点から「おかしい」という姿勢は一貫していた。
 一方鈴木議員は、ムネオハウスやムネオ号などについて、「モンゴルでは日本から送られた車はみんな、コイズミさんからの贈り物と言っている(ムネオハウスもそれと同じ)」と強弁した。しかしこれはおかしい。
 小泉首相は一国を代表する立場だ。鈴木議員はそうではない。そういう政治家の個人名が冠されるというのは、よほどの政治後進国でないかぎり、おかしい。
 あるいはコンゴ人私設秘書。コンゴ通商代表部を名乗り、外交官ナンバーの車に乗り、官邸にも出入りしていたその人が外交官であるなら、他国の外交官を私設秘書にするというのは、アメリカならスパイ活動を助ける行為とみなされる。もし外交官でないなら、官名詐称だ。「外交官とは思っていない」と鈴木議員も外務省も言うが、パスポートの種類(公用なのかどうか)すら「確認していない」という。これはどう見ても、おかしい。
 その私設秘書が、コンゴの大使交代に介入し、新大使へのIDカード発行を妨害したとされる。外務省は「鈴木議員の秘書」というだけで、どういうパスポートを持っているかも分らない人物の言うことを聞いたのか。これはおかしい。
 族議員の一掃か、日本丸の沈没か。まさにそういう光景だ。沈みゆくタイタニックの船底をかじり、倉庫から食糧や金品を運び出し、あろうことか操舵室の指揮命令系統の配線さえかじってしまう“頭の黒いネズミ”たちを放置しては、いかなる「デフレ対策」も信認を得られないのは明らかだ。

外務省のどこがおかしいのか
 政府や権力が「公」のものであるための最低限の道理が、こうした無理によって蹴散らされてきた背景は何か。
 北方四島への人道支援として建設されたディーゼル発電所にも、鈴木議員とロシアの新興財閥との「不透明な」つながりが見え隠れしている。
 橋本・エリツィン間で「二〇〇年までに平和条約締結(領土問題解決のうえで)」に合意してから、北方四島への支援はケタはずれに増えた(鈴木議員の役職は北海道沖縄開発庁長官、官房副長官)。だが「疑惑」の数々をみれば、その実態は、北方領土を食い物にする政商と利権政治家との談合ではなかったのか。
 まさに外務省が、国益という言葉をいっさい使わない役所になったことと、パラレルの関係ではないか。
 アフリカ外交はどうか。ここでも国連安保理常任理事国入りをめざして、カネでアフリカ諸国の票を買う、ということがまかりとおっていた。そこに鈴木宗男がスッとはいった。
 外務省のどこがおかしいのか。稼ぎと務め―自分で稼いで食う(税金にぶら下がるのではなく)、そして自分の「務め」を社会的に表現できること―これが分かっていないところで、国益など言葉としても分るわけはない。ここに膨大な「無能化」の空間が生まれた。
 国益を語れない外交官の下では、(声が大きいだけの)利権政治家が跋扈し、職員は公金横領・裏金づくりに力を発揮する。「悪いことと知りながら」ではなく、「何が悪いことなのかわからない」―これが平成官僚無能化の大罪である。
 外務省だけではない。狂牛病対策の遅れの責任をとって辞任した農水事務次官が、平然と食肉関連団体に天下る。そして、そのことをいっさい知らないでいられる農水大臣しかり、である。
 同じようなことをした雪印なら、市場によって淘汰される。政治でそれをやるのが、選挙による政権交代だ。
 稼ぎと務め、無理と道理が、生活レベルでは分るという国民が、好き嫌いではなく職責を問うとして政治を見るようになった時、その対極に集合しているのがこういう世界である。だからこそ、どこがおかしいのかを、政権問題として議論するすべを手にしなければならない。

政治改革なくして構造改革なし
 小泉「疑似」改革のどこがおかしいのか。
 国民が支持している政府の方針を、与党がひっくり返す・足をひっぱる・骨抜きにする。ここがおかしい。それが政府・与党という二重構造であり、与党事前審査という慣習である。 
 ここを変えずに構造改革は可能なのか。政治改革なくして構造改革なし。まさに細川政権以来の課題―改革の権力問題を、小泉・真紀子政権は国民のまえに明らかにした(子供じみた手法ではあるが)。
 鈴木宗男議員はいくらなんでもひどすぎる、あんな乱暴なことをやってはいけない。しかし、カネをもらって特定業者のための口利きをするのはいけないが、ある分野を専門とし政策で役所に口を出すのは、正当な政治活動だ。そう思っている議員は与野党ともに、少なくないだろう。
 そこがおかしいのだ。
 例えカネをもらっていなくても、議員が役所に口出しして政策を決めるのは、間違っている、それは政治家の仕事ではない。政策は議会で議論を通じて決めるものであって、役所と交渉して決めるものではない。
 外務省改革をめぐって、「政治家の影響力の排除」がうたわれた。それに対して、自民党の部会からは、「無能な役人に代わって政策を考えているわれわれの意見を聞かないとは何事か」と、猛反発があったという。これはおかしい。
 政治家の仕事は、議会で議論して合意形成することだ。特定の利害がバックにあっても、それ自身は何の問題もない。利害関係と無縁な政治はないのだから。問題は個別利害のぶつかりあいを、議論を通じて合意形成するなかからのみ、パブリックは形成されるということである。政治家はこの職責を果たせ、ということなのだ。
 それを「利害調整」「足して二で割る」や「裏取引」みたいなことをしていれば、パブリックなどどこにも形成されず、私利私欲の跋扈となる。鈴木宗男のつくられ方は、ここにある。
外務省改革で、首相は「特定政治家の影響力排除」と「外務省の独立性」を指示した。これもおかしい。これではあたかも、何が公的なのかを役所に判断しろと言っていることになる。そうではない。何が公的なのか、何がブリックかを決めるのは、議会における討論―国民に選ばれた政治家による討論を通じた合意形成なのだ。それが政治家の職責だ。役人は、そうして形成された「公」に従うかぎりにおいて、公僕なのだ。
 イギリスでは、役人と政治家の接触にはルールがあり、与党議員と役所の接触は原則禁止である。当然だろう。与党は閣僚を通じて役所をコントロールするのだから。そして役所は、与党にも野党にも同じ情報を提供しなければならないのだ。
 アメリカではエンロン疑惑を解明する議会(上院)の調査機関が、情報開示を求めて副大統領を提訴した。行政府と立法府とのチェックアンドバランスの仕組みは、政治権力の正統性・信頼を担保する究極の基礎である。
 政治改革なくして構造改革なし。国民主権の権力システムをより確実なものとすることなしに、改革の実行はおぼつかない。与党事前審査などは、単なる慣習なのだから、自民党総裁でもある首相が「やめる」と言えばやめられる。そして国民主権の権力システムの重要な要素こそ、政権交代にほかならない。
 政権問題を、「他に代わる政党・政治家がいないから」(いまや小泉支持の最大の理由はこれ)というところで論じることそのものを、終わりにしよう。

失政15年の総括なくして改革なし

信用崩壊・信頼に無頓着な政策の責任をだれがとるのか
 四月のペイオフ解禁を前にして、地方銀行の貸し金庫は札束でいっぱいになっている、という笑えない話がある。銀行が破綻したら一千万までしか返ってこないが、貸し金庫に預けてある現金なら大丈夫というわけだ。
 金融庁は金融機関の特別検査を三月いっぱいで終わらせると言っているが(この「特別検査」自体も問題が多いが)、三月三十一日に「危ない」銀行が分っても、預金者には預け替えの猶予はないということが、お分かりなのだろうか。
 この形の変わったタンス預金の一方で、金価格が暴騰し、外貨建ての資産運用がかつてない規模になっている。
 これらの事象が物語っているのは何か。信用の崩壊である。「不良債権はもう大丈夫」「金融危機は起こらない(だから公的資金の再注入は必要ない)」と政策当局がどんなに言っても、もはや誰も信用しない。銀行の信用のパイプが詰まっているから、どんなに日銀が紙幣を増刷してバラまいても、おカネは動かない。そうこうするうちに、貨幣そのものの信用が崩壊して「円が日本を見捨てる」(キヤピタルフライト)ときが近づく。
 「政策的な『大手術』も『モルヒネ』も、信頼に無頓着であった。『大手術』すなわち構造改革論では、既得権益を持つ人々が抵抗しないよう急激に制度を解体し再構築するのをよしとしている。いわゆる『ビッグバン』がそれである。けれども将来に対する不安が募るから、いきおい貨幣だけしか頼るものがなくなり、その保有を増やして消費や投資を削減し、不況を招き寄せているのが現状である。こうした事態を受け、最近では「インフレ・ターゲット論」が持ち出されたりしている。
 これにはしばしば、インフレが勃発することを危惧する向きからの反論がなされている。けれども問題は、さらにその先にある。インフレを起こして国民に貨幣を保有させなくし、資産や商品を買わせようというのは、諸制度が信じられなくなり将来不安の蔓延する中で、唯一信じうるものとみなされている貨幣に対する信用をさらに崩壊させようとする案である。貨幣の方がより信頼できないようにして、他のものを買わせようというわけだ。政治が信頼を醸成するためにあるのだとすれば、貨幣に対する信頼の解体を意図するこの政策は、窮余の策というより致命傷を与えるものだ。 一方、『モルヒネ』的財政政策による『ゴー・アンド・ストップ』にしても、国民の期待をいじり回した揚げ句に政策に何を期待して良いのかを分らなくさせただけに終わった」(「信頼が壊され経済は疲弊した」松原隆一郎『論座』2月号)
 デフレ対策の必要性をどんなに力説しても、現状認識(公的資金の再注入が必要かどうか)さえ一致できない政府の寄せ集め対策では、どんな信認も得られない。外務省問題でも首相の「外務省任せ」の姿勢が目立ったが、経済対策でも「○○任せ」でいくのか。財政、金融、産業というあらゆる政策を組み合わせて整合性のとれた対策をたてていく以外にないときに、首相の現状認識(というものがあるとして)に合わせられない大臣に任せっぱなしで、出てきた対策について「今回で最後じゃないから」と、自ら不十分さを認めるような他人称のコメントをする。そうして、信用だけがさらに毀損されていく。
 公的資金注入は必要ない、金融危機は起こらないとする柳沢金融相の認識が正しいのか、それは査定が大甘だからで、きちんと査定して引当てをすれば債務超過におちいる金融機関はある、その場合には公的資金も必要とする現状認識が正しいのか。それは、結果次第である。 問題は、結果責任を明確にするのが政治であり、それによってのみ信頼は醸成されるということだ。そこが一向に見えてこない。逃げている。だから何を言っても信用されない。
 わが国が今直面しているのは、景気循環とは性質の異なる、構造的な問題である。しかもグローバル経済下でのデフレ対策は、どの国も経験したことがない。その意味でも、政策への信頼・責任だけが命綱なのである。

失政十五年の総括なくして改革なし
 第二の敗戦とは、じつは「失われた八〇年代」の結果に過ぎない。すなわち八〇年代、冷戦末期のアメリカの戦略的大転換に、何も考えずに追従した結果の「虚ろ」(金融、通貨における国益、主権意識の完全なる欠如)の全面露呈にほかならない(本号6―8面掲載の竹内文則氏問題提起を参照)。
 外部環境の歴史的な大転換についていけず、なすすべもなく漂流し、氷山が目の前に迫っていながらそれに衝突…。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられ、プラザ合意(一九八五年)以降の失政十五年とは、こういうことだろう。そして、ABCD包囲網にまで追い込められた「大東亜戦争」の国策の誤りも、その起点は(「一等国になった」と舞い上がって)、第一次大戦後の国際社会の変化についていけなかったところにある。
 外部環境の大転換を主体的転換のテコとする―その責任の取り方、信頼の構築のしかたが問われている。
 そのためにも、九八年以降の「金融再生」がどのように行われたのか、米国のペコラ委員会に倣った、厳格な検証と責任の追及が不可欠である。
 米国は大恐慌後の一九三二―四年、ペコラ委員会を設置、個々の不正はもとより、政策決定についても「犯意なき過ち」とはせずに、徹底的に検証・追求した。その結果、公的資金導入による経済再生の道すじがつけられるとともに、その後半世紀以上、世界の金融・証券市場のベースとなるシステムがつくられた。
 ひるがえってこの三年間は「犯意なき過ち」どころではないのだから、失政の責任追及と公正なルールなくして、信頼の回復も経済の再生もありえない。

われわれの構造改革、そのための権力をつくる アメリカ発のグローバル・エコノミーは、対ソ核戦略のための軍事技術から転用されたという出自からして、各国のナショナル・エコノミーを破壊するのは当然である。これをいかにコントロールするのかをめぐるせめぎあいが、冷戦後の国際社会のダイナミズムを規定している(本号8―13面森本氏の講演を参照)。このなかでわが国は、どういう位置、スタンスをとり、何を国益とするのか。そういうことを全く考えないのなら、先日の日米首脳会談のような甘ったるいエール交歓で十分だ。そして日米関係さえうまくいけば、あとはすべてよし、としていればよい。だが、現実はそうではない。
 ブッシュ大統領の「悪の枢軸」に、あそこまで無批判に追随する同盟国は、他にない。ヨーロッパは同調していないし、韓国でも中国でも(中国は同盟国ではないが)「注文」をつけている。アメリカとは国益が異なるのだから、当然である。しかも「悪の枢軸」発言は、エンロン疑惑の度に飛び出し、今年秋の中間選挙をめぐる国内政治の力学で動いている側面がかなり大きい、という時に。同時にイラクへの攻撃は、第五次中東戦争を引き起こしかねない、というときに。
 アメリカの一国主義的な国益追求に同調することが、わが国の国益たりうるか? 答えはノーである。ではアメリカに対抗することが、わが国の国益たりうるか? これもノーである。
 日米同盟を再設計するとは、機軸通貨たるドルとグローバルパワーたるアメリカの軍事力(世界の警察官的役割)を、アメリカの一国主義的な国益(国内政治の力学)からもっぱら動かすことを相対化すること。いいかえればグローバルな国際協調とリージョナルな国際協調の組み合わせのなかに、いかに取り込んでいくかということである。
 そのひとつの試みがEU統合であり、NATOである。もしわが国が、アメリカの国益に同調するだけ・対抗するだけなら、アジアにそのような枠組みは必要ないことになる。日米同盟だけがあればよい。
 グローバル化の影の部分を、アメリカとは違う方法で再統治する(自由、民主主義、市場経済を異なる方法で発展させる)必要があるのなら、アメリカとは異なる主体性、国益を持たねばならず、日米同盟を(先述したような意味で)再設計しなければならない。日本の日本たる所以も、ここから規定しきるのであって、過去に返って無条件降伏のトラウマを云々しても、何も生まれない。
 グローバル化の影の部分を、アメリカとは違う方法で再統治する、すなわち自由、民主主義、市場経済を欧米とは異なる方法・異なる歴史空間で発展させるためにこそ、われわれの構造改革が必要なのである。異なる歴史空間とは、近代の総総括の上にたって、ということであり、異なる方法とは、欧米流の自立した市民社会の未成熟(成熟途上で)ということである。
 日本が図抜けたナンバーワンであった時代は、アジアにとっては苦難と分断の時代であった。日本が「アマング・イーコールズ」になる時代を、アジアがともに幸せになる時代とするために、なにをなすべきか。例えばここから自由貿易を考えれば、東アジアにうまれつつある市民社会を味方につけ、さらに発展させるために、自由貿易は役にたつ。市場の統合は、地域の多国間協調の基礎をさらに強固なものとする。
 自由、民主主義、市場経済を共通の価値とする新しい共同体を展望するなら、そのインフラ、公共財として「円の国際化」「集団的自衛権」も明確にする必要がある。あるいは自立した市民社会をさらに発展させるために、「環境負荷」や「社会的公正」を入れた新しい市場を再設計しなければならない。
 例えば経済で言えば、GDPの三分の一を(中央・地方の)政府部門、三分の一を民間、三分の一を非営利社会活動で占めるように促進する制度改革とはなにか。個人が資産運用できる(自立と自己責任を学べる)ような開かれた民主的で公正な株式市場をどう育成するか。(アメリカ流グローバル経済が有利になるような株式・金融市場改革とは大きく異なってくるのは明らか)。
 あるいは、家族や労働の分野でも、自立を促すような制度改革とは何か。二極化を固定化しない、多様で流動性のある社会をつくるうえでの教育の役割とはなにか。このように教育を論じる場合と、「戦後教育の弊害是正」で論じる場合とでは、当然すべて異なってくる。
 二極化を再統治する―ここで「地球共生国家日本」というわが国のアイデンティティー、新たな公共性(パブリック+共生)の哲学を規定しきる。そしてこの価値観から、外部環境の変化(日米同盟の再設計と東アジア戦略)と、内部環境の変化(人生の再設計、家族と労働の再構築)を、「われわれの構造改革」への媒介としていこう。
 小泉「疑似」改革の“終わりの始まり”は、こうした「われわれの構造改革」をより鮮明にするとともに、改革のための「われわれの政治権力」を作り出す格好の舞台となりつつある。