民主統一 269号 2001/9/1発行

小泉「疑似」改革の虚と実
歴史の節目に問われる国民主権の内実

小泉「疑似改革」を選択した閉塞感打破の心情

 小泉「疑似改革」は、参院選で「国民の支持」を得た。これに対して、「(自分はいいとは思わないが)国民の選択だから」「今後、改革がどうすすむかを見てから」ということでは、国民主権の内実を問うことはできない。歴史の変わり目に際して、多くの場合「世論」は間違った選択をする、その間違った選択を国民自身の責任において是正し、あるいは覆す組織戦―有権者再編を展開できてこそ、国民主権はホンモノとなる。
 ファシズムや全体主義は、普通選挙制が導入された後の問題である。誰もが等しく一票だからこそ、国民の責任を問わなければ、民主主義は最悪の衆愚政治となる。ファシズム・全体主義を生んだ民主主義から、ファシズム・全体主義と戦う民主主義へ。ヨーロッパの民主主義は、そのように深められてきた。
 ひるがってわが国では、歴史の節目の選択を「空気には逆らえない」と心情に流した「失敗」の経験がある。ここからわれわれは何を学んだのか・学ぶべきなのか。今そのことが問われている。
 「国家のこと、公のことは『責任倫理』で判断されるべきで、どんなに純粋で正しい動機でも、手段が間違っていたり結果が悪ければ認めてはいけないのです。『感情倫理』ではなく『責任倫理』で政治を見る目が民主主義の第一歩で、この目があるかないかで国民自身の幸・不幸が決まってくるのです。自分にとっていいかどうかだけではなく、地域、共同体、国全体にとっていいことなのかどうか、さらには地球全体、現在の世代のみならず将来の世代にとってもいいことなのかどうか、そこまで少なくとも合理的に考えられることが、二十一世紀の有権者には問われているといえましょう」(メールマガジン「がんばろう、日本!」19より)
 「失われた十年」の間にうっ積した閉塞感、不安や不満。それらを打破してほしいという心情からの政治選択は、歴史的な意味で「誤り」である。だが一方で、ここからしか「変革の国民的エネルギー」が生まれてこなかったのもまた、事実である。
 小泉政権は、細川ブームの時にも動かなかった層までをも政治に参加させた。それが「疑似」参加だろうと、ワイドショーを通じた参加であろうと、「構造改革は生活破壊だ」ではなく「痛みを伴っても改革しなければ先がない」ということが国民合意(ある意味で「空気」)にならなければ、次のステージには進めない。
 問題は、このエネルギーをどこに向けて迎え入れるのか、である。心情論での選択の誤りを国民自身が是正しうるまで、国民主権の内実を問い、民主主義のさらなる成熟を促進すること。そして、改革と言ってさえいればよいという空間を終わりにし、「いかなる改革が必要なのか」「どういう改革はしてはならないのか」という土俵に議論を引き上げること。こうした本来の意味での政党活動こそが問われている。
 ポピュリズムの危険は、そうした政党活動の不在に起因する以外のなにものでもない。そして政党政治なきわが国にあっては、こうした活動を、自覚した有権者自身が担わなければならない。第二の(経済)敗戦を契機に目覚めた国民=有権者の第一期生には、そのことが問われている。
 社会的な活動(パブリック)なき私的自覚では、「空気」の前に口をつぐむしかなくなる。問題は、それぞれが私的に深めてきた自覚(政党政治がない以上、私的経験として深めるほかはなかったのは当然)を、パブリックに向けて語るすべ、すなわち自由・民主主義・市場経済の深化発展に向けて語るすべを手にすることである。
 かくして国民主権を自覚する学習過程は、“終わりの始まり”を迎える。戦後の虚ろを自覚し、歴史観、国家観、統治責任意識の不在を自覚する段階から、この不在を克服する主体への転換・飛躍へ。「がんばろう、日本!」国民協議会の核心はここに形成される。
 小泉政権を、かような意味で国民主権のリトマス試験紙としてつかいこなすこと。このなかから、改革保守の国民政党の主体性が獲得される。

歴史の節目の選択を心情におし流すか、責任倫理へ脱皮するか
問われる国民主権の内実

 「失われた十年」のうっ積から生まれた情緒的な「空気」をそのまま受け取って、変革のエネルギーにすることはできない。「このままズルズル行くのならいっそのこと…」という心情は、「失われた十年」の失敗から学ぶすべのないところから生まれてくる。そこに何かを教えるためには最低、経験から学んだ何かを語れなければならない。
 例えば参院選の電話かけの中でも、前回九八年参院選後に金融危機に対処するために注ぎ込まれた六〇兆円がどう使われたのか、景気対策と称するバラマキのために増大した二百兆円の赤字国債はどう使われたのか、そうした「失敗」を振りかえることなしに「改革」とさえ言っていれば改革できるのか、「やってはならないこと」の教訓くらいはもって検証・評価しよう、という話をできれば、「小泉人気」の熱狂は沈静化できた。
 あるいは、「細川政権以降、結局政治は変わらなかった」という不信に対して、「政権交代の基盤整備の教訓」としてこの十年の紆余曲折を語れる度合いで、有権者としての責任を共有できるとなっていく。
 不信感はどこから来るのか。
 「(マーケットは、小泉政権の「聖域なき構造改革」に対して)なぜ不信感をもっているのか。その理由は、日本がまた、いつもと同じような失敗を繰り返すのではないか、という懸念が拭い去れないことにある。日本はいつも、過去になぜ失敗したのかという事後的な点検が行われないままに、次の政策を展開しようとする。そしていつも矛盾ばかりの政策を展開する」(ポールシェアード/http://www.genron-npo.net)
 これはマーケットだけではなく、政治不信についても、また「歴史と向き合おうとしない日本」という不信にも共通する。
 失敗から学ぶことができなければ、信頼を蓄積することはできない。失敗から学ぶためには、都合の悪い事実にも正面から向き合うだけの責任意識が伴わねばならない。
 都合の悪い事実から目をそむけ、過度な希望的観測に走るというのは、旧軍部からバブル後の大蔵省まで共通する“病”である。その基礎にあるのは、時々の心情に走り「実績がない時に期待するのは得意だが、業績評価するのは苦手」(川上貞史/アエラ7/30)という国民である。これでは合理的判断はできない。
 「空気」に走って国策を誤った一九三〇年代から七十年、「成功物語」の惰性で失った九〇年代の十年間を経てようやくわれわれは、「気持ちや心情と政治は別の次元の問題ではないか」という国民的基盤を獲得しつつある。「好きか嫌いか」「右か左か」というような単純二分法では、政治の判断はできないこと―今参院選は、有権者にそのための新たな悩みを与えた。
 政府の失政にノーというために投票所に足を運ぶ―九八年参院選は、かような意味での初めての業績評価選挙であり、その点からは欧米の基準から見た「普通の民主主義」へ一歩近づいたものだったが、今参院選は、それでは解けないより高次の問い―だれがホンモノの改革派か、仮面組をどうやって見抜くか、どういう投票をすることが政界再編を促進することにつながるのか―と悩みを有権者に与えた。
 ここからようやく、心情ではなく合理判断で政治を見るという民主主義の成熟への一歩が始まる。自己経験をパブリックに向けて語るためには、心情では語れない。
 サッチャー政権が誕生した時のイギリスには、「うちは代々、労働党の支持だが、国がこういう危機の時にはサッチャーに投票する。これは好き嫌いの問題ではない」という有権者がいた。政権交代可能な民主主義を支えるのは、こうした国民文明である。政治は心情や正邪で判断するものではなく、賢明な判断か愚かな判断かだけだという合理判断のできる社会を構成するのは、こうした国民である。
 小泉政権の業績評価をめぐる攻防は、こうした民主主義の成熟に向けて、国民主権の内実を問うものとなる。

自民党政治の国民的基盤の崩壊を、
改革保守の国民政党の基盤づくりからのみこむ

 小泉政権は、自民党最後の延命装置となるだろう。
 冷戦の終焉、そして社会構造の変化によって衰退しつつあった旧来の保守基盤とその集票システムを、自民党は自社さ連立、さらには自公連立で補強してきた。それはまた、かつての包括政党から特定の(依存構造)分野へのバラマキに特化した部分政党への移行過程でもあった。そのなかで、政治不信は自民不信へと先鋭化し、自民党支持層の自民党離れは加速の一途をたどることとなった。 
 小泉政権は支持基盤を、都市の無党派層といわれる層に入れ替えることに一定成功したが、同時に「小泉改革」の断行は伝統的な自民党支持基盤の利害に反するという根本的な矛盾を抱えている。そのなかで延命しようとすれば、本質問題をあいまいにしたまま、「目先の感動」や「当面の敵」を次々とつくりだして、熱狂を維持し続けることに権力基盤を見い出すほかはない。
 これは最悪の延命装置である。政治判断は、「何が世論受けするか」「どうやれば喝采を浴びるか」というだけのことになる。改革という言葉は、翼賛用語になる(参院選ではすでにそうなった)。
 すでに自民党からは政権党であるにもかかわらず、「国家国民のため」という空文句さえ消え、「国益をとるか、国民人気をとるか」ということが大手を振っている。党員集めのノルマを撤廃したとたん、アルバイト代にも困る県連がでている。草の根からの支持がいかに空洞化しきっていたか、それを政権党のうまみ(利権配分)だけでつないできたという実態が、さらけだされている。
 こうした自民党政治の国民的基盤の崩壊は、改革保守の国民政党の基盤づくりからのみこむ以外にはない。それはまた、改革と言ってさえいればよいという「改革翼賛体制」的空気から、「いかなる改革なのか」「ここをこう変えればこうなる」という合理的論議へ、土俵を移す組織戦でもある。
 小泉改革の「疑似」たるゆえんは「真なるもの」「ホンモノ」との関係でしか、明らかにすることはできない。われわれの構造改革、われわれの政党政治、われわれの国民主権の内実・・・ここからはじめて、疑似の疑似たるゆえん、したがってこれをどこに向って越えていくかという指針を提示しうる。「疑似」=ニセモノ批判=失政待ちでは、自らの虚ろが露呈するのみ。
 参院選で悩んだ有権者(投票したにせよ、棄権したにせよ)は、自らの選択を他人のせいにはできない。歴史の節目での選択に責任を取らねばと思う人々は、「疑似改革」にもニセモノ批判にも満足はできない。改革保守のホンモノを創る以外にはない。
 小泉さんなら変えてくれるんじゃないか、と期待した人々も、疑似改革に満足するわけにはいかない。「聖域なき改革に異論はないが、どこまで痛みを耐えればいいのか」という人々が求めているのは、モルヒネではなく「ここをこう変えればこうなる」という改革の戦略ビジョンとストーリー(理念と具体策のセット)である。それは改革保守のホンモノから創る以外にはない。
 既得権層といわれる医師会や特定郵便局長会、遺族会等の中でも分岐は始まっている。それはまず、旧い組織の求心力低下としてあらわれるが、そこから根なし草になれない人々は、疑似改革に踊るわけにはいかない。利権やしがらみで地域に根づくのでなければ、「変わらなければ守れない」と言って根づく―ホンモノの改革保守の国民政党をつくる以外にはない。

われわれの構造改革
地球共生国家日本をめざして

 これまで構造改革と言われてきたことの多くは、日本型社会主義あるいは戦後システム(戦時体制の延長という意味で41年体制とも言われる)の機能不全への対応である。不良債権に代表される金融システムの機能不全、特殊法人や公共事業に象徴される行政システムの機能不全や腐敗・癒着。抵抗勢力というのも、ここでのことである。
 小泉「疑似」改革の瞬間芸としても、ある程度、これらの問題に手をつけることはできる。抵抗勢力を抑え込んだ格好となった参院選の結果は、改革の目玉として既得権のひとつやふたつを潰してみせられるくらいの権力基盤は、小泉政権に与えた。
 これなら緊縮財政という話だけで終わる。これでは構造改革とはいえない。『われわれの構造改革』から小泉「疑似」改革の業績評価を行っていくことで「いかなる構造改革なのか」という土俵へ移らなければならない。
 まず第一に、「既得権に切り込む改革なのか」「責任を明確に問う改革なのか」「痛みは責任あるほど重く、という改革なのか」を検証しなければならない。これらはいずれも後始末の領域であるが、ここがあいまいになればツケ回しにしかならない。
 「前門の不良債権、後門の国債暴落」と言われるように、現在の状況は九八年の比ではない。ハードランデイングかクラッシュかという局面だからこそ、政策の信頼性だけが問われるのである。信頼への一歩を築くことができるなら、例えクラッシュからでも再生への道は見えてくる。
 そのうえで、われわれの構造改革とは、ひとことで言えば「地球共生国家日本」をめざすものである。
 人生の再設計ができる構造改革か
  経済構造改革は集中的に雇用問題の解決となろうが、失業対策に止まる限り、出口は見えない。仕事とは「喰うための労働」であるのみならず、パブリックへの参加のための場であり、人間の尊厳の確保でもある。パブリックへの参加があるからこそ、「食えればいい」という労働の世界が人間的なものとして存在しうる。雇用のミスマッチの解決とは集中的に、この世界を創ることである。その視点がなければ、介護を始めとする社会的サービス業やNPOなどを雇用の「受け皿」に、というのは数合わせとしても成り立たないし、新たな補助金バラマキルートとなるのは目に見えている。ましてや地域通貨など、「賃労働ではない社会的有用労働」によって結ばれる新しいコミュニティー、それを視野にいれた人生の再設計などはおよびもつかない。
 脱工業化、ポスト成長社会への構造改革なのか
 より本質的な意味での構造改革とは、工業化・成長経済から脱工業化・ポスト成長社会への移行、転換のことである。その象徴が、地球環境問題であり、社会保障改革である。
 「地球有限」時代の経済社会、産業構造をいかにつくるかは、これからのわが国の経済的国益にとっての死活問題であり、京都議定書をめぐるヨーロッパやアメリカの駆け引きも、そのことである。
 これまで外部不経済化されてきた環境負荷を市場原理に内部化すること、そして民主的意思決定においても、現在の世代間の公平のみならず将来の世代との公平をも考慮すること。このように民主主義や市場経済をより成熟したものへもっていくために、構造改革のプランを議論しなければならない。
 また「人生八十年」とは、国家を考える最小単位としての百年を、一人の人生と重ね合わせて考えられる、親・祖父母と子・孫の代までを、過去―現在―未来にわたって考えられる時代の到来である。だからこそそれにふさわしいパブリックへの参加・責任を果たせる基礎的条件をどのように確保していくか。社会保障の構造改革は、そのためのものでなければならない。
 近隣外交とリンクした構造改革か
 二十世紀のわが国は、アジアにおいて孤立した存在であった。冷戦後ようやく、アジアにおいて自由・民主主義・市場経済を共有する地域的条件が生まれ始めた。構造改革とは、こうした普遍的価値をさらに成熟させるためのものであり、アジア各国(一部は除くが)はここにおいても課題を共有している。これはかつてない歴史的条件である。
 ここにおいていかなる存在感を獲得するのか。近隣外交の歴史的再構築と結びつかない構造改革では話にならない。
 さらに、非核・核軍縮と専守防衛を結び付けるものとしてのミサイル防衛システム(集団安保の具現化)にむけて、わが国の安全保障の構造改革をめざさなければならない。核の優位性を無力化しうるミサイル防衛システムの構築と、地球環境保全のための国際協力は、各国の国益を地球益とリンクさせる新たな国際秩序への重要な糸口となるだろう(これらについては紙幅の関係で次号に)。

 これらのことが、地球共生国家日本をめざす、われわれの構造改革の基本的な性格となるだろう。こうした日本再生のための国民的基盤として、改革保守の国民政党の基盤を準備すべく、小泉「疑似」改革の業績評価を行っていこう。