民主統一 268号 2001/8/1発行

すり替え・絶叫の「小泉改革」を選んだ国民の選択の誤りを、
政権交代の基盤整備にむけて闘う有権者再編の組織戦を

−改革保守の国民政党を−

あなたは、有権者としての責任がとれる選択をしたか?

 記録的な猛暑のなか、それと反比例するかのように株価が底割れを続け、京都議定書や靖国参拝などをめぐって、小泉改革に限りなく赤信号に近い黄信号が点滅し始めた。しかし、そうしたシビアな現実など「どこふく風」のような小泉総理の絶叫と、「純ちゃんコール」の熱狂のなかで、参院選の選択は行われた。
 将来のいつの時点かに、この二十一世紀最初の選択を振り返って、「あの時はしかたなかった」「あの時はだまされた」と言うことだけはないような、有権者としての責任がとれる行動(投票したにせよ、棄権したにせよ)をしたと、あなたは言えるだろうか。
 戦後生まれのある程度の世代なら、一度は親の世代に問うたことがあるだろう。「なぜ“あの時”、戦争への道を止められなかったのか」と。女性の参政権はなかったとは言え、すでに男子普通選挙制度は確立されていたなかで、“あの道”は選択されたのである。誰によってか。軍部のテロや独走、近衛の誤り、政党指導者の裏切りなど、いろいろ挙げることはできるだろう。だがやはり、「空気」を形成したのは国民だったということを、忘れないようにしよう。
 戦前と戦後の決定的な違いは、国民主権という点にある。ヨーロッパでは、ファシズム・全体主義と戦う自由・民主主義として戦後は蓄積された。しかしファシズム・全体主義との闘争の主体的教訓の上にたたないわが国の戦後は、完全無欠なまでのパブリックの欠落、「カラスの勝手」の自由・欲望民主主義へと開花した。(アジアの自由・民主主義は、植民地支配との戦いを前史とし、独裁を克服する闘争を通じて蓄積された、と言えるだろう)
 国民主権に魂を入れるためには、戦後日本の虚ろを打破し、「疑似政権交代」、「疑似市民社会」をホンモノの政権交代・その基盤整備としての有権者再編に挑戦し続ける以外にはない。
 小泉政権との攻防は、次のことを鮮明にしつつある。
 国民主権の“神話”を信じ、それを現実のものとするために戦うことができるのみならず、ポピュリズムと賢明に渡り合い、国民の自覚と責任を問うことのできるものこそが、パブリックの活動、本来の政党活動であると。今参院選を、このような活動を担うことのできる活動家を鍛える格好の舞台として総括し、その教訓を語り切ろう!(本号掲載の「活動報告」参照)
(労働・仕事・活動/全体主義との闘争を通じて「自由」の意味を問い続けたハンナ・アーレントの概念を援用すれば、「生きるための(喰うための)労働」「社会的意味をもつ仕事」(仕事を通じた社会的責任)に対して、「活動」とはパブリックから説明できるもの、ということになろう。選挙戦においても、利権配分やさまざまな口利き、タカリを「活動」という世界と、パブリックから説明しきる活動との乖離は鮮明である)
 政権交代可能な政党政治のための、二大政党制への移行をめざしてきたここ十年近くの四苦八苦を、そのために総括しきろう。さすれば小泉旋風の熱狂にも吹き飛ばされずに踏ん張ったもののなかに、とりわけここ三年(第二の敗戦以降)の有権者再編の“点”を見い出すはずだ。それを“線”から“面”へいかに拡げていくか。それがこの秋からの課題である。
 小泉旋風の圧勝と大騒ぎしても、冷静に見れば民主党も自由党も議席上では「健闘」したと言える。このなかにある可能性(有権者再編の蓄積の可能性・もちろんそれがない部分もある・その仕分けのうえでの話)を伸ばしていくことのなかに、疑似政権交代からホンモノの政権交代への道を開くべきだろう。 
 自民党の大勝は、土台の腐れたクモの巣だらけの古寺での一瞬の熱狂だ。タレントと族議員が膨張した小泉自民党は、ますます糸の切れたタコのように「風」に舞うしかない。熱狂が絶望と不信に変わった時にファシズムへ突っ走るのか、それとも熱狂から醒めた時に自覚と責任を問うのか。それは、有権者再編の活動家の質と量をどこまで準備できるかにかかっている。
 すり替え・絶叫の「小泉改革」を選んだ国民の選択の誤りが露呈していく過程を、政権交代の基盤整備の組織戦へ転化すること。改革保守の国民政党の基礎は、そこから見えてくる。)

有権者再編なき疑似政権交代から、政権交代の基盤整備としての有権者再編へ

 相変らずの「小泉人気」の高さにもかかわらず、投票率は前回(98年)よりも2・4ポイント低い56・4%にとどまった。
 改革をおしすすめるため誰に投票したらいいのか考えざるをえない、という有権者の声はそこここから聞こえたが、そうした人々の少なくない部分が結局、棄権したということだろう。有権者の政治意識や政治的自覚が、変革の実践的活動と結びついていない、私的な経験としてしか蓄積されていない弱さ(ファシズム・全体主義と戦う自由・民主主義として蓄積されていないことの表れ)の露呈でもある。
 第二の敗戦をひとつの契機として、「変えたい、変わろう、変えよう 国のこと=自分のこと」(「がんばろう、日本!」国民協議会のイメージポスター)という雰囲気になり、この間の選挙(98年参院選、00年総選挙、各知事選、今参院選)に主体的に投票してきた有権者の第一期生には、今こそ“市井の行動的賢人”すなわち有権者再編の活動家としての役割が求められている。
 選挙期間中の電話かけでは、これまでになくじっくり話を聞こうという雰囲気が、電話の向こうに感じられた。やりとりのなかでも「いろいろ考えている」「判断の参考になる話を聞かせてもらった」という言葉が数多く返ってきた。そうしたなかではほとんど、「業績評価」「政権交代でしか変わらない」ということをめぐって討議になり、政権交代可能な二大政党をめざしてきた(はず)のここ十年近くの紆余曲折をめぐって、またそのことに対する有権者の責任(観客民主主義からの脱却、政党をつくる有権者の責務)について、話し込むということになった(本号「活動報告」参照)。
 これは電話帳での電話かけである。つまり不特定多数の普通の人たちに対して、正面から「有権者としての責任」を訴えて、「政権交代」「政党政治」を他人事としてではなく自分たち自身のこととして提起する・さまざまな角度から、相手に応じて考える材料を提供するのである。こうした活動家が多数いれば、考えに考え、迷いに迷った末に投票に行かなかったという人は、ずっと減ったはずである(自覚層によって投票率が押し上げられる)。
 選挙戦中盤から、「小泉さんでは変えられない」という声が目立ち始め、終盤戦では「あれでは困る」という反応がはっきりし始めた。同時にワイドショー派のなかからも、熱狂から醒め始める分解がみられるようになった。小泉改革に対する不安(中身が何も示されていない)、小泉外交への懸念(京都議定書、靖国参拝)、あるいは旧体質の権化のような者までが「私こそ小泉改革の先兵」と豹変することへの不信。
 実生活での経験(ここ十年近くの「改革」や「政治」をめぐる紆余曲折に身を置いてきたところからの実感)に基づいて、構造改革とは何か、日本の国益とは何かetcを評論としてではなく、国民自身が考え始めたのである。これにきちんと判断基準を示し、有権者の自覚を高め、行動に出るように促進することができる活動家が、圧倒的に足りないのである。もっと正確に言えば、こうした「考え始めた」人々のなかからこそ、有権者再編の活動家を大量に育成していかなければならない。
 なぜなら有権者再編の活動家は、利権配分やさまざまな口利き、タカリを「政治活動」としてきた世界からは、絶対に生まれないからである。有権者再編とはパブリックから説明しきる活動である。
 政党政治のないわが国では、もっぱら私的な自覚から始まるしかない。そこから一歩先んじて行動に移し始めた人たちを見て、「ああすればいいんだ」と続く。そういう人々のなかから、政党政治の基盤をつくっていくのである。(候補者サイドから言えば、新党ブームの夢の後で「風」ではダメということが分かり、続いて「地域に根づく」ということが利権・口利きで根づくのか、それとも理念や政策で根づくのかということとして、篩にかけられてきたということ)
 こうした“芽”は確実に存在する。小泉旋風に飛ばされず踏み止まった、あるいはそのなかで勝ち抜いたというところには、その可能性が存在する。それを点から線へ、さらに面へ。そして私的な自覚から有権者再編の行動的活動家へ。
 今後、参院選での国民の選択の誤りが露呈する。その過程を、政権交代の基盤整備としての有権者再編の組織戦へと転じていくなかからこそ、改革保守の組織戦術が見えてくる。
 有権者再編なき疑似政権交代は、細川ブームの時でも動かなかった層までをも「政治」に巻き込んだ。ここ十年前後の中で、政治に対する国民の関心は最も高まり、政治が良くなると考える人も最多。反面、六割をこえる人が政治や政治家を信頼しておらず、八割が政治に不満を持っているという(読売新聞の参院選前の世論調査)。
 「痛みを伴う改革を断行!」という絶叫に、「キャー」と熱狂するのも異様な光景ではあるが、観客席で興じている限り、熱狂は政治への絶望的な不信に転じる。「構造改革は生活破壊だ」というのも、根は同じである(戦前、翼賛体制への先導役のひとつは社会大衆党であった)。構造改革とは何か、二十一世紀の日本の国益とは何かetcを自分の生活に根ざして考え始めた有権者が、どこまで行動的自覚層となるか。それによって「絶望」を叱咤し、呑み込んでいくか。
 今参院選の選択によって、有権者再編の力勝負は、このように設定されることになるだろう。

小泉改革をしっかり検証し、有権者の責任としての業績評価を

 小沢一郎・自由党党首の言うとおり、今回の国民の選択は「間違った選択」である。問題は、これをひっくり返す次の組織戦をどう構えるかだ。「小泉改革」の業績評価をしっかりと行うこと、そこからホンモノの構造改革とは何かの合意を形成し、総選挙による政権交代を準備することである。
 族議員とタレントだけが膨張した自民党は、崩壊過程にはいるだろう。すなわち総無責任体制である。
 靖国神社参拝をめぐっては、中国の強硬な抗議もあって、閣内からは田中外相、連立内からは公明党の強固な反対論がでている。そもそも靖国問題は、「国のために殉じた人にお参りするのがいいのか悪いのか」というレベルで議論されてきたのではなく(またそれなら、天皇陛下のご臨席の下で行われる戦没者慰霊式典だけでは不足なのか?という話にもなる)、アジアといかなる関係をもつのか・アジアのなかでいかなる位置を占めるのかという国益にかかわる問題として、戦後ずっと議論されてきた。「参拝した後、諸外国の反応を見て関係改善を考える」というノーテンキの小泉さんには、そのことがまったくお分かりでない(あるいは「聞く耳持たず」?)。しかしどうやら「予想外に大変なことになるらしい」と分かってくると、残るのは「有言不実行」と思われたくない、ということだけになるようだ。
 (付言すれば、アメリカ政府高官もこの問題に「憂慮」していることが伝えられている。アジアで孤立した日本は、アメリカの信頼に足る同盟国でありえるのか?ということでもある。「自分は親米だ」「アメリカは日本を軍国主義から解放した」と言っていれば、日米関係をつなげるというものではない)
 これで果たして、聖域なき改革などできるのか? 石原都知事は小泉氏について「軸となるものがない」と評したそうだが、「抵抗勢力」と言われる部分も参院選の結果、「小泉改革」に反対するより都合のいいように骨抜きしたほうが、自分の生き残りにとって得策だと判断している。軸のない「改革」ほど骨抜きしやすいものはない。もしそれをさせないと言うのなら、参院選にひとつでも、既得権に切り込む具体的な政策を公約として掲げたはずだが、それをしていないのだから、推して知るべしである。
 当然のことながら、参院選の結果に対する市場の反応は、バブル崩壊後の最安値の更新である。このままでは九月に時価会計を迎える銀行の不良債権は、さらに増えることになる。政府が「株価対策」をするのは愚かなことだが、補正予算は当然議論になるだろう。その時に、小泉改革に何があるのか。
 京都議定書の発効にブレーキをかける小泉総理には、「環境立国」というのは「地球にやさしい」と同じ程度の飾り言葉なのかもしれない。だがこれからの国際競争力は、環境負荷を組み込んだ経済社会システムの構築力によるのであり、そのための産業構造再編・転換、技術開発等をめぐって欧米はしのぎを削っている。米の京都議定書への対応も、このグローバル競争を有利にもっていくためのかけひきである(そのことも分からないようでは、「コマ」として使われるだけである)。
 京都議定書への対応は、「小泉改革」にはこうしたことがいっさい視野に入っていないことの表れだ。それで補正予算を組めば(経済状況からは組まざるをえないだろう)、これまでと同じバラマキにしかならないのは当然だ。骨抜き同士の力関係で、配分分野は多少変わっても。
 さすれば、橋本失政からその後の自公バラマキというサイクルが、さらに悪い形で繰り返されることになる。九八年の時はまだ、ソフトランディングかハードランディングかということも可能だったが、この三年問題を先送りした結果、今やハードランディングかクラッシュかというところに立たされている(このことがお分かりでない)。従来型の補正予算では当然、来年度予算もその延長となり、クラッシュ・シナリオがさらに一歩近づくことになる。
 一方で、環境負荷を組み込んだ経済社会システムの構築をめぐるしのぎ合いに、わが国の死活的な国益がかかっていることが見えないところで論じる社会保障改革とは何か。ポスト工業化・ポスト近代化という視点がなければ、単に少子高齢社会化に伴う帳じり合わせとして「負担と給付のバランス」が論じられるだけだろう。もちろんそれでは、既得権の解体もなしである(配分の変更のみ)。
 こうした次の時代の社会ビジョンなき「構造改革」とは結局、これまでのツケ(不良債権、財政赤字)を後始末するだけの「緊縮型」となる。現に不良債権処理を第一項目に、国債発行限度三十兆円を―それだけ、と言ってもよい―かかげるのが「小泉改革」なのである。それなら、「精神の構造改革」と言ってさえいればよい。だからこそ「買い」の材料が見当たらないのだ。
 「改革の痛み」の第一は失業問題だ。選挙中も「どれだけの痛みに耐えればいいのか」との国民の真摯な質問に、小泉内閣の誰一人として答えるものはなかった。それどころか、「失業より雇用を創出する話をするほうがいい」(次の時代の社会ビジョンが見えていないところで、どういう雇用を創出するのか?)というすり替えを平然と行う人である。
 小泉改革が対象にしている失業へのセーフティーネットとは、「早期退職制度」があるようなところの層の問題である。しかしこれから問題になる(そしてすでに深刻になっている)失業は、この層の問題ではない。
 例えば日産の工場閉鎖時点で、そこに働いていた社員には次の就職先は確保されていたという。しかし周辺の商店街や下請け、関連業者はどうするのか? あるいは大手行は税金で「再建」、その「徳政令」で生き延びたゼネコンは地方の小規模事業にまで手を突っ込む一方で、小さいところは倒産処理、なんとか生き延びたところも大手ゼネコンに仕事を奪われ…というのでは、社会的不条理が拡大するだけである。
 こうした構図でひき起こされる失業は、社会的荒廃に転じる。それを「治安」問題としてだけ処理するのか? 公正さが失われた社会に、勤労勤勉、真面目さ、責任などがありえるか? そんな社会に活力が生まれるのか?
 「日本の有権者はまだ実績のないときに『期待』することは上手だけれど、『評価』することは上手ではない」(川人貞史・東北大大学院教授/アエラ7・30号)。
 参院選後の「小泉改革」をしっかりと検証し、自らの選択の結果に対して「業績評価」するという、有権者としての責任をまず果たそう。政権交代の基盤整備はそこから始まる。
 そして、政権交代の基盤整備としての有権者再編をおしすすめるべく、9・23「がんばろう、日本!」国民協議会全国大会へ!