民主統一 267号 2001/7/1発行

国民主権の力で、小泉「疑似政権交代」を呑み込み、政界大再編へ!
参院選は自公過半数割れを!

都議選の結果は、有権者に「さらに深く考えざるをえない」条件を与えた

国民主権の力で、小泉「疑似政権交代」を呑み込み、政権交代の基盤整備をおしすすめて政界大再編へ!

 この舞台の幕は、都議選でじつに絶妙に切って落とされた。有権者には、「さらに深く考えざるをえない」条件が、それぞれの段階に応じて巧妙に与えられた。
 「政治的関心がある」が(だからこそ?)、適当な候補者がいなかったから棄権した、という人たちには「そういう政治的関心とは何なのか」「ほんとうに変えたいと思うなら、それでいいのか」を問う結果である。
 投票率50パーセントは前回より10ポイント上がったとはいえ、総選挙時より10ポイント低い。国政選挙には足を運んだ有権者のうちの約百万人が、今回は棄権しているということだ。その少なくない部分が、民主党・自由党を軸に投票した「改革期待」層と考えられる。「あなたの『変えたい』がホンモノなら、その程度の『政治的関心』でいいのか」。
 「小泉さんを応援するために、今回は自民党」という人にとっても、「小泉効果」とやらに有頂天になっている永田町のお歴々の姿を見れば、考えざるをえない結果である。「小泉改革は絶対に私が阻止します」と業界団体に決意表明している人が、小泉さんとのツーショットを前面に掲げて参院選を戦うというのだから。「あなたの望んだのはそういう結果なのか」
 「小泉旋風」と大騒ぎをするが、投票率は細川ブームのときの都議選(58%)や、昨年総選挙(60%)には及んでおらず、議席数、得票率から言っても、自民党にとっては森内閣の時の「逆風」が止まった、という以上の意味はない。この程度の「風」の前に吹き飛ばされる「改革派」とは何なのか。森内閣のていたらくがあってこそ「改革」ぶれていた虚ろが露呈しただけではないか。
 小泉人気を「永田町政治へのノー」として受け止め続けることができなかったら、次はもっとひどい目にあうということは、党本部のお歴々よりも自民党都議(の一部)のほうが実感できるだろう。彼らの一部は、党本部のお歴々よりも国民主権を追認できたからこそ、先頭にたって森総理の退陣を求め、総裁選への党員参加を求めて行動したのだから。
 国民主権を追認できないものは去れ。小泉総裁の誕生はそのことだ。そしてここから、国民主権の追認がポピュリズム・大衆迎合となるのか、それとも国民に主権者としての責任を問う(本来の意味での)政治活動―国民政党の活動の型をもつのかが問われてくる。都議選はその幕開けなのだ。
 国民主権とは、国民に変える力があることを信じ、その神話を現実のものとするために戦うことである。と同時に、時代の変わり目に「世論」というものは多くの場合,正しくない動きをする―問題はその時に、大衆を有権者・国民へと脱皮させるすべを持てるのかどうか。それを持つものだけが、国民主権の名にふさわしいのである。
 国民主権は大衆迎合ではない。国民が自分自身のこととして、国のこと・社会のことを考えるということであり、そのようにつねに国民に問い、促進していくことができるのが(本来の意味での)政党である。自分の目先の利益からだけではなく、パブリックから考えることができる国民が基軸を占めること。ここから自由や民主主義ということがホンモノになり、そこに政権交代可能な政党政治の基盤ができる。そのとば口をあけるのが今!なのだ。(本号16面戸田代表講演ならびに5―10面講演会録参照)

救国・改革政権の権力基盤を、有権者再編のなかからつくりだす、国民主権の活動家を

 「観客民主主義」からの脱却は、アタマで分かったからといって完成するものではない。それは国民がそれぞれのレベルに応じて、実際の生活の政治経験を通して学んでいく以外にない。
 政党政治のないわが国では、政治のワイドショー化から「政治の市場化」が始まる。特定の業界・団体・利害関係票を奪い合う「四割選挙」の世界に比べれば、「開かれた」ことは間違いない。問題は、ワイドショーや夕刊紙からの参加を、どう迎え入れるかなのだ。世論とは、働きかける対象である。政党政治の原則や理念、あるいは政党の綱領、そういったところから働きかけられるのか、それとも迎合的になるのか、単なる対処論なのか。バッジをつけているほうにも、有権者にもそれが問われる。そこでホンモノかどうかが試される。
 少し考える人なら、待てよ、細川ブームの時もそうだったな、じゃ、あれはなぜだめだったのかと考える。あるいは新進党はなぜ失敗したのかと。小泉・真紀子現象というのは、ワイドショーや夕刊紙から参加してくるような国民にまで、この十年の教訓を政党政治の問題として語っていく糸口でもあるのだ。つまり、そのように使いこなせる「活動家」が、どこまで準備されているのかということなのだ。
 この間、主権者としての自覚を深めてきた人々には、このような有権者再編の活動家への脱皮が問われている。政治的自覚の高さを、ワイドショー的参加の人々を有権者へと脱皮させるべく迎え入れる忍耐力と胆力へと発展させよう。そうでなければ、有権者再編の肝心な勝負の時に、いっさいつかいものにならないということになる。
 ポピュリズムへの冷笑というなかには、全体主義やファシズムとの闘争の教訓は、いかなる意味でも主体化されていない。ファシズムとの闘争の教訓のうえに立たない戦後日本の「自由」や「民主主義」とはいかなるシロモノであったのか。全体主義やファシズムとの闘争の教訓の上にたたずして、市民社会はありうるのか。戦後日本にあったのは「総中流化」でしかなく(それも冷戦のただ乗り的受益のおかげでの)、市民的自我や自立のカケラもないその虚ろが、バブルの崩壊によって全面露呈しているのではないのか。
 こうした「戦後の虚ろ」の上に咲いた「政治的関心」なのか、それとも有権者再編の活動家・市井の行動的賢人へと脱皮していく政治的自覚なのか。これは実際の政治経験を通じてのみ学んでいく以外にない。
 ポピュリズムと賢明に渡り合い、大衆から有権者・国民への脱皮を上手に組織していくためには、それぞれが主体的に悩まなければならない。歴史観の不在を問い、国家とは何かを問い、統治活動・政党政治の不在を問うて、一歩一歩国民主権を深めること。実際の政治経験から学ぶとはそういうことだ。
 もしも総裁選で橋本氏が勝っていれば、都議選も参院選も深く考えずに、「反自民」「アンチ永田町」のエネルギーで十分だったろう。その延長で本当に、構造改革をなしとげることができるだろうか? その延長でホンモノの政権交代が可能だろうか(細川政権を超えることができるか)? 
 そう考えてみれば、小泉政権になったおかげで、これまでよりも深い意味でホンモノとニセモノを見分けることが問われ、どういう投票行動が本当の意味での改革につながるのか考えざるをえない、少なくない人にとって「悩ましい選挙」となったのではないか。
 だからこそ改革を主体的にひっぱる側にとっては、それぞれの悩み方に応じて、国民主権の発展への「次の一歩」を示し、その方向へ促進していくことが問われる。組織戦術とはそのことであり、それができるのが本来の意味の国民政党の活動家なのである。
 そうした戦術や人(活動家)を準備することをともなわずして、「正しい戦略・理念」はありうるのか。こういうことも、そろそろ厳しく検証される。国民が実際の政治経験を通じて学び始めたときに、それをより賢い有権者へと引き上げていくすべを持たなければ、どんなに緻密に「政策」の各論を詰めても、それを実現する権力基盤は、永田町内の席替えに求めざるをえない。政局がつねに、政権党の動向待ちとなるのは当然である。
 政策と選挙と政局が一致するとは、改革政権の権力基盤を有権者再編のなかからつくりだすすべを心得ているということ。すなわち、自分の政治経験を通じて一歩一歩学ぶ国民に、つねにそれぞれに応じた国民主権の「次の一歩」を示していくすべ(忍耐と胆力)を心得ているということである。
 「小泉がんばれ、自公を落とせ」とは、かような意味での組織戦術である。「小泉政権を支持するのか、反対するのか」というレベルでは、組織戦術という意味は理解不能である。ワイドショー的参加を有権者へと脱皮させるべく、いかに迎え入れていくか。この活動家としての意識性に応じて、「小泉がんばれ、自公を落とせ」を有権者再編の組織戦術として、実践的に深めていくということになる(3面「都議選総括」参照)。

国民主権の力で政権交代を問うために、参院選は自公過半数割れを!
「小泉がんばれ、自公を落とせ」から
「どうした小泉、既得権に切り込む改革プランを示せ」へ

 この参院選で自民公明が過半数を確保するようなことになれば、今後三年間は国民が国政に選挙でかかわる機会はなくなるだろう。今はなりをひそめて、陰で「小泉は参院選までだ」と言っている自民党内の「抵抗勢力」は、予算編成の時には前面にでてくるはずだ。
 こうしたなかでは、「改革の痛み」は国民へのツケ回しに終わりかねない。「抵抗勢力」が大声をあげて抵抗するのは、道路特定財源の見直しや特殊法人の廃止、公共事業の削減など、政官業の癒着・利権の「聖域」に「痛み」を与える改革であり、いずれも予算編成にからむ。ここでもめて何もできない時に、「郵政事業の(将来の)民営化」などを「目くらまし」としてブチあげるか? 
 下手をすれば、財政再建の帳尻合わせのための国民生活切り捨てや実質的な国民負担増など、国民に痛みを与える「改革」として「抵抗勢力」との妥協が図られてもおかしくない(なにせそのときは、衆参とも自公過半数確保なのだから、そして小泉の「痛みを伴う改革」が国民に支持されたとの大義名分もあるのだから)。
 構造改革は生活破壊だ、というのでないなら、何を守るために、どこへ向かうために必要かが納得できれば痛みも分かち合う、というところまでの合意はできつつある。問題は、どこに主に痛みを伴うのか、である。参院選後の予算編成は、集中的にこの問題となる。
 前述したように癒着・利権の構造に切り込む改革なのか、それとも国民にツケを回す帳尻合わせなのか。これは政策の整合性の問題ではなく、権力闘争の問題である(橋本改革の失敗を想起せよ。課題はすでに整理されていた。問題はだれが、どういう力を推進力にして、どこから手をつけるか/どこから手をつけてはならないかである)。
 どこに痛みを伴う改革なのか、これをめぐる攻防のなかで国民に信を問う。すなわち国民がどちらに権力を信託するのか、政権交代を問う。そのためには、この参院選で自公過半数割れに追い込んで、衆参逆転というなかでこの局面へ押し込んでいくことが必要である(5―10面講演会参照)。
 「小泉がんばれ、自公を落とせ」から「小泉しっかり、既得権に切り込め」そしてさらに「どうした小泉、自公・既得権構造解体のプランを示せ」へと。参院選とその後の局面のなかで、このように押し込んでいこう。そして構造改革の政策プランとその実行をめぐる国民主権の渦で、国会と既存政党を巻き込んでいこう。ここから、救国・改革政権の権力基盤をつくりだしていこう。
 そのためにも、参院選は自公過半数割れを!
 政権交代の基盤整備―有権者再編をおしすすめるべく、参院選をかく戦おう。その総括と教訓をもって、「小泉劇場」をしのぐ国民主権の政治ドラマの幕を開けよう! 九月二十三日、「がんばろう、日本!」国民協議会全国大会へ!