民主統一 258号 2000/10/1発行


日本を再生させる矜持ある国民運動を!
「がんばろう、日本!」国民協議会運動をよびかける11・19集会へ!

日本人よ、胸をはって国の行く末を正面から論じ、行動しよう!
いま国民運動の秋!

 二十世紀最後のオリンピックが幕を閉じた。日本選手団の中には、帰化して日本国籍を取ったコリア系や中国系の日本人といった人たちがいた。
 一方で国会では、永住外国人の地方参政権が議論となっている。この問題が政治の場に提起されたのは数年前だが、ここにきてようやく(自公の合意うんぬんという駆け引きレベルの話としてではなく)「国家主権とは」「国民主権=国民固有の権利としての参政権とは」という議論が生まれ始めている。
 その背景には、戦後半世紀近く「忘れ去られ」てきた「日本人として考える」という“気概”や“構え”が、偏狭な国家主義や反国家主義とは無縁なところから、自然体ででてくるようになったことがある。改革を掲げる者にとって、自らを「国際感覚をもったナショナリスト」と名乗ることは自然なことだし、「改革の国民的エネルギーのためには健全な愛国心が必要だ」というのも、ごく当たり前のことだ。
 国際金融など、国際社会が日常活動の舞台になっているからこそ、「日本を客観的に相対化して見ることと、日本をなんとかしようと努力することとは、なんら矛盾しない」というのも、当たり前の「生活感覚」と言える。そこからすれば、「日本になんか何も期待しない、自分を一番生かせるところへ行けばいい」というベンチャーもどきに対して、「そういう環境は、その地域の人たちが長年努力した結果だということを忘れるな!」と一喝するのも常識だ。
 「日本人として考える」ということは、イデオロギーを振り回すことではなく、現実の問題を解決するために努力すること、そのために他の人と意見を交換し、よりよい解決のために協同できることにほかならない。
 自らの社会の命運を冷徹に見通しつつ、それに対して一定の責任を感じることができる人を主権者という。同時にわれわれは、国家というものなしに、民主主義をよりよく機能させるすべを、いまのところ持っていない。「国民主権」とはそういう意味だ。
 そうだとすれば参政権の問題も、わが国近代の現実の形成であるコリア系日本人、中国系日本人、ブラジル系日本人といった人々と、ともに「日本人として考える」(われわれの社会の現実の問題のよりよい解決のために協同する)ための問題としてもとらえるべきなのではないか。(自らが何者であるのか、どんな社会―国をめざすのか、ということに対するいかなる主体性も責任性もないまま「流される」というのが一番いけない)。
 国家観なき国家たらざる国では、国民も外国人も守ることはできない。今問われている国民意識とは、家族や地域といった身近なコミュニティーと国家、さらにはアジアや地球といった構造の中で、国家や国益を正しく位置付けることである。身近なコミュニティーへの責任と参加―共同体を維持するための仲間を持たずして、バラバラな個々人が国家を担うわけではない。同時に今日の国家や国益は、地球益やアジアの共通の利益といったものとリンクせずしてはありえない。
 個人と国家を対置させ、あるいは国家を否定して地球を語る(自国の安全保障をあいまいするために「地域安保」を語るなど)という“戦後の病”にベッタリはりついているものは、「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」という「カラスの勝手」の自由や民主主義であり、それと同義のとてつもない自己愛と依存である。(人前で平気で化粧するという行動様式は「世間が狭い」、つまり身内でしか通用しない世界で満足して他の世界が見えないのだが、これはある意味で戦前の軍部から省庁縦割りの縄張り争いまで、行動原理は同じこと)。
 一方で、こんな風景も見え始めている。政官業の癒着=戦後政治の打破から始まった政治改革は、細川政権を誕生させた総選挙を含めすでに三回の総選挙を経た。そのうち二回は小選挙区制での選挙だ。そのなかから、しがらみにとらわれない議員がすくなからず誕生した。政治への思いがあり、その思いを実現するために五年とか十年、努力し続けることができるなら、それが叶うという世界だ。そういう人を当選させるだけの有権者も、少なからずでてきた。
 政治というのは、特別な利害関係のある人たちがやるものではなく、普通の人が問題解決のために協同することだというようになってくるにつれて、国政を変えることと、身近な地域やコミュニティーで問題解決のために協同することとが一致してくる。有権者再編の本格的な深まりだ。
 国政と地方政治が上下の関係ではなく、共同体を維持するための協同=「選択―責任―連帯」の関係として再構築されてくる(地方分権はそれを促進する制度にならねばならない)。身近なコミュニティーへの責任と参加―共同体を維持するための仲間を持たずして、国政や国家・国益を論じたつもりになるという空間はなくなる。「日本人として考える」「国際感覚をもったナショナリスト」ということが、そこでは自然なことになる。
 だからこそ、日本を再生させる矜持ある国民運動の秋なのだ。国家観なき国家たらざる国家をそのまま受け取って、どんなに改革を論じても、底なしの自己愛と依存のドロ沼が拡がるばかりだ。
 自民党の「根腐れ」は、共同体を維持するために努力し、よりよき社会をつくるための責任を分かち合うという「本来の保守」層が構造的に離脱し、行政依存人だけを代表する「部分代表」になってしまったところにある。
 今必要なのは、旧い地域共同体の崩壊の結果として現状を論じることではなく、新しい共同体の再構築―国民主権の再構築をめぐる協同関係をつくること、そこから日本再生のエネルギーを生み出すことである。
 今こそ「がんばろう、日本!」国民協議会運動を、あらゆるところから起こそう!

本格的な有権者再編と構造改革をめぐる政治決戦へむけて
11・19集会要綱

1 11・19集会ではまず、改革をめぐるここ十年近くの紆余曲折(政界再編のジグザク)を、政党建設の教訓としてひもとく。
 民主主義国家における変革とは選挙革命であり、構造改革の民意をまき起こすにふさわしい理念、政策、組織戦なのかどうかが掛け値なしに問われる。それができるのが、政党である。議員の席換えとしての政界再編では、政権の組み合わせは変わっても(数合わせ)、権力基盤の入れ替えとしての政権交代はできない。構造改革のような国家的な政策転換は、民意を問い、集約し、選挙で決着をつけるという政党政治によってこそ可能となる。
 政党政治が未成熟なわが国では、時代の転換は政党再編や政権交代としてではなく、政党の液状化(既存政党の瓦解と、うたかたの新党ブーム)として進行せざるをえなかった。問題はそのなかから、わが国における政党建設のための教訓をどこまで語れるか、からしか始まらない。
 個々の議員という形式であれ、原理・原則で政党をつくるという形式であれ、政策・理念から支持基盤をつくるということで(地縁、血縁、業界団体の利害関係ではなく)、一定の支持基盤を得ることができる―そのくらいにまでは、国民意識も変わってきたということ。これが十年の結果であり、ようやく有権者再編の糸口が見えてきたところから、国会議員の席換えではない、地域社会に根をはった政党建設の諸問題が見え始めるようになる。
2 一方でこのことは、コミュニティーの再生に責任をもつことと、国政の変革―日本再生とを結びつけることのできるものとして、政党のありようを問う。「このままでは日本はだめになる」という危機意識は、同時に家族や地域社会、コミュニティーのありように対する危機意識、責任意識と一体である。そうでなければ、単なる評論にすぎない。
 共同体を維持する責任を分かち合う、自立した、地域社会に根をおろした人間関係のなかから、それぞれ地方政治や国政の担い手が選抜される(候補者そのものは「落下傘」でも構わないが、それを選考するのは地域社会を担う責任を継続して負う人々―つまり政党の基層組織)というのが、(議員の数合わせではない)政党政治の姿だ。
 新党ブームの時には地方までは動かなかったが、今年の総選挙では、地方の政治構造も本格的な有権者再編に入り出したことを示している。この進行を政党建設の一歩へ結びつけられるかどうかは、本格的な政治決戦設定能力の如何と連動する。
3 有権者の自覚をさらに一歩深めること。選挙の時に一票を投じる、そのために候補者をよく見定める―リーダーの真似事をするのではなく、リーダーを選ぶというフォロワーの役割をきちんと果たすこと―というのが有権者としての自覚の一歩であったが(政党政治が未成熟ということは、まず「リーダーの真似事」という勘違いを正すところから始まらざるをえない)、さらに今後は「政治家を育てる」ということへ深めなければならない。
 民主主義は時間がかかる。国家や社会が変わるのは、十年、二十年の単位である。一年や二年で諦めたのでは、何も変えられない。改革の思いのあるものは、五年、十年、志を変えずに努力するかどうかで選抜される。
 有権者もそうだ。少なくとも次の選挙まで、自分が投票した政治家が何をやり、何をしていないのか、公約はどうなったのか、きちんと付き合う必要がある。支持できる政治家なら、日常の活動(ビラ配布やミニ集会など)にも参加しよう。普通の人が世直しのために、生活の一部(時間と労力とカネ)を割く、それを五年、十年と続けること。そのなかでコミュニティー再生の仲間をつくること。政党活動が根づくとは、そういうことにほかならない。
 そうやって根元から「政治家を育てる」力がつけば、公募ででも能力と志のある候補者をつくることができる。そういう基層組織には、次の時代をになう人材が集まってくる。国家百年の計を考えられる政党は、そうやって人材を自前で育成することが必要だろう。
 日本再生の国民運動とは、かような意味で政党政治の礎を築くことでもある。
4 これは構造改革ブロックの有権者再編によってのみ、可能となる。そのために、構造改革政治の全面的展開力を発揮し、争点設定ならびに政治決戦設定を有利にすすめる政策論争をあみあげる知恵をみがくことも必要となる。

「がんばろう、日本!」国民協議会運動を担うのは誰か
それはあなたの自発的意志から始まる
選択−責任−連帯

 世直しの国民運動は、野球型の組織というより、サッカー型の組織だ。臨機応変に動き、お互いの個性を生かしあってチームプレーをする。基本的な方向の一致とそこにおける信頼が担保されるなら(世直し、政治活動にとって唯一最大の財産は「信頼」であり、それは一貫した継続性によってのみ担保される)、それぞれの持ち味を最大に生かしあう。「使えない」個性はない。自分の個性を、他のどういう個性との関係で世直しのために生かすか、それを決めるのはあなた自身だ。
 プロジェクトを提案して、仲間を募り、まとめ役になってもいい。政策とは机上の作文ではなく、旧い生活のありよう、および人と人との関係を、新しいものに変えることなのだから、それ自身が新しい人間関係の再編となろう。そのなかから、有権者再編を有利におしすすめる構造改革政治の全面的な展開力をみがきあげていくこともできる。
 介護や少子化、社会保障での政策提起と外交や安全保障あるいは憲法といったところでの政策提起をどう組み合わせれば、新しい国民運動の展開となるのか。農業や町づくり、産業振興をどうすすめれば、コミュニティー再生と改革をむすびつけた国民運動となるのか。
 あるいは、コミュニティー再生と日本再生をむすびつけた「がんばろう、◯◯」という、各地の運動をあなた自身から始めよう。学校や教育の問題を通じて、あるいは介護の問題でも、地域や共同体の再生力を問うことなしに解決できる問題ではないことを少なくない人が感じ始めている。「日本人として考える」と同時に、共同体を維持する努力を分かち合う仲間を募ろう。その基礎にたって、志があって、共同体を維持するために努力している人々が信頼するに足りる(野心があってもウソがなければいい)候補者や政治家を、選抜し、育てていこう。
 さすれば選挙は(国政も地方政治も)、共同体の維持に責任を持ち、問題解決に努力する人々が幅広く参加し、次の方向をどうするかを論じ、合意形成をはかる政治決着の場となるだろう。国民主権の再確立とは、例えばそういうことではないだろうか。
 十年近い「政界再編」は「敗北の教訓」だらけだ。十年かかっても、これだけしか変わっていない(何も変わっていないどころか悪くなった)と言うこともできる。しかし新党ブームの時に期待したサラリーマンが、リタイアしてボランティアでビラ配布をするようになり、一方で「自分もなれるかもしれない」と思った息子の世代の若者が、選挙で当選してきている。当時、中学生だった少女が今は大学生になり、自分が政治家になるためではなく社会人としての訓練のためにスタッフとして日常活動に参加している。
 十年かかってここまできたとすれば、次の十年のために今、何をなすべきか、そのなかで自分の役割は何で、どういう仲間を募り、誰のどういう個性と協同すればいいのか。そのなかから、さらに次の十年、二十年を担う世代、人材を育てる土壌をどうつくるのか。そんなスパンで時代と自分のかかわりや役割を考えていこうではないか。
 二十一世紀の初頭に、日本がそれなりの国としてあり続けられたとしたら、「あの時が転換の始まりだった」と振り返るような時期―来年の参院選にかけては、そういう時期になるだろう。その時に「あの時日本人として考え、改革のためにこう行動した」と胸をはって言えるように、この時代を生きよう!
 「がんばろう、日本!」国民協議会運動を創るのは、あなたの意欲と自発性だ! 11・19集会へ!