民主統一 257号 2000/9/1発行


日本再生のための矜持ある国民運動を!
構造改革政治の全面的展開力と有権者再編のダイナミズムを!
「がんばろう、日本!」国民協議会運動をよびかける11・19集会!

国民主権の再確立へ、有権者再編のエネルギーとダイナミズムを

 何年か後に、もし日本の構造改革が進展していたなら、「あの時が転換の始まりだった」と振り返るような時期―今回の総選挙から来年の参院選にかけては、そういう意味を持つことになるだろう。
 有権者再編と結びつかない政界再編では、変革のエネルギーとダイナミズムを生み出すことはできない。戦後政治を支えてきた基盤である国民そのものの中に(時代を反映した)生活の分岐が生じるとともに、それを政治的に集約する有権者再編の組織戦が開始されるところから、ようやく変革のエネルギーが見え始めてきた。これを前にすすめることができるのか、抑止・寸断するのか。激しいせめぎ合いは、すでに始まっている。
 「時代は変わろうとして、変わりきれないでいる」ということの背景には、国民の中に変革のエネルギーが生まれつつあることの確信と、それを発展させていくために何をなすべきかという実践的な探求の裏打ちがある。そこでは、現実を変革するエネルギーを生み出すものこそが、理念と呼ぶにふさわしい。
 民主主義国家における変革とは、結局のところ選挙革命であり、それを起こすにふさわしい民意を創りだすまでの力を持った理念、政策、組織戦なのかどうかが、掛け値なしに問われる。これが有権者再編の意味である。孤立しても改革を訴えるという理念や信念が、もしも「国民の意識の遅れ」や「しがらみ」を嘆くことと同居していたら、それは旧体制(既得権層)批判の鋭さとはなりえても、有権者再編の力とはなりえない。そういう時期に、われわれは駒を進めたということでもある。
 有権者再編を促進するためにはなによりも、有権者・国民との対話―コミュニケーション能力が必要となる。
 例えば、「◯◯のことは、私に任せてください」という訴えのホンネは、「××(対立候補)になったらカネは下りてこないゾ」ということである。ホンネの話はオモテには出しにくいが、じつは有権者との会話はこれで成り立っている。あるいは「私に一票を」というのは、じつは「そうでないなら寝ていてくれ」というホンネと表裏一体だ。これでは、民主主義的雰囲気のする対話は成立しない。なにより、そうした訴えは一方通行である。
 その延長にでてくるのは何か。「民意」を受けて鳴りもの入りで始まった自民党の「公共事業見直し」だが、そこでの会話は、「中止するなら別の見返り(振興策)を」「地元の意向には最大限配慮する」というものだ。すでにサビついて使いものにならない廃品同然の事業をもっともらしく中止するかわりに、新しい事業(IT土建!)と交換する。それなら初めから「公共事業『太らせる』検討会」(日経8/25)としたほうが、よほどわかりやすい会話が成り立つではないか。
 「みなさんの問題です。一人ひとりが考えて投票してください」という訴えなら、オモテに出せない話は不要になる。オープンにすればするほど、「小選挙区になってから、みんなにいい顔をする政治になって、迎合するようになってしまった」という嘆き節の余地はなくなる。
 オープンな対話をやろうと思えば、一方通行ではだめだ。思いや政策を伝えると同時に、さまざまな異なる立場の人の話を聞き、説得するにせよ、啓蒙するにせよ、あるいは相手の意見を参考にするにせよ、ある意味では本人以上にその言わんとするところを汲み、そこから対話すること。そして「〜というのが私の考えです。あなたはどう思いますか」「みなさんはどちらを選択しますか」と問いかけ、さらにそれを受けとめて返すキャッチボールの能力が双方に求められる。
 国民に直接訴えるというのは、確かに手間がかかる。しかし民主主義とはそもそも「やっかい」なのだ。政治は神学論争ではなく、現実の問題解決の実践であり、民主主義は(やっかいな)合意形成の手段である。それゆえ、民主主義にはコミュニケーション能力が不可欠なのだ。私情をぶつけ合うところに、コミュニケーションは成立しない。だからこそ合意形成のためには、国民意識や時代精神(新たなる公)が必要になる。(なぜなら、いまだにわれわれは「国家」というものなしに、民主主義をよりよく機能させるすべは発見できていないからだ。民主主義のグローバルな発展は国境を越えていくが、そのめざすところは、民主主義をよりよく機能させるための国家変革である)。
 臨時国会で、野党が代わる代わる同じように「久世氏を金融再生委員長に任命した総理の政治責任」を問い、それに対して総理が一字一句違わずに「そういう人を選んだことは残念であり遺憾である。国民に率直にお詫びする」と答えるという光景は、コミュニケーションとはほど遠い。(「相手によって答弁を変えたらそのほうが不公平ではないか」とのオチもついた。民主主義とか公平とか責任という意味が、とてつもなく別の世界ができている)
 「ITは日本経済をけん引する神風」というのが森総理の最近の口癖だそうだが、つぎのような意見をいかがお考えになるか。
 「それでもインターネットやITだけに通用するスキル(技術)というものはないと思う。中高年のおじさんたちが今困っているのはね、パソコンを使えないからではないんです。コミュニケーションスキルがないからなんですよ。
 例えば、ある企業とか派閥でしか通じない言葉や文脈を使ったりするんですよね。『神の国発言』だってそうでしょう? だから相手にされない。パソコンとはあんまり関係ないです。もっと根本的な問題です」(村上龍・毎日7/25)
 コミュニケーションは民主主義のチカラだ。国民主権の“神話”を信じ、それを現実のものとする、その確信とエネルギーこそが、日本再生の鍵にほかならない。そのエネルギーを生み出す精神は、「負けて目覚める」―「第二の敗戦」を転機に、戦後を根本的に見直さねばならないとの思いに根ざしている。(「先送り・バラマキ」政権を見て、あるいはそごうや雪印、三菱自工などの無責任経営を見て、そしてキレて事件を起こす少年の親となるリスクを身近に見て、「われわれの国・社会はこんなものでいいはずがない」「なんとかしなければ」と心底思うことなしに、変革のエネルギーは生まれようはずがない)
 国民主権を再確立する有権者再編をダイナミックにおしすすめ、日本再生の国民的なエネルギーへと発展させていくこと―「あの時が転換の始まりだった」と振り返ることのできるように。

日本再生のための国民運動を!
構造改革政治の全面的展開力を!
「がんばろう、日本」国民協議会へ!

 欲望民主主義へと帰結した戦後民主主義の原風景は、敗戦の焼跡であった。今それに替わる、国民主権再確立の原風景が形づくられようとしている。それはまた、東アジアの構造改革・民主化とリンクしうる可能性があるという意味で、敗戦―欲望民主主義とは異なる時代の条件を、われわれに与えている。
 そこで構造改革派に問われているのは、この新しい原風景に立脚した構造改革政治の全面的な展開力であり、有権者再編の力勝負である本格的な政治決戦を設定していく能力である。
 日本再生のための対話が普通に成り立つ世界では、もはや「内政と外交」の区別や「景気回復か財政再建か」「高負担高福祉か低負担低福祉か」「公共事業は是か非か」といったこと自体、争点とは見なされなくなっている。
 例えば、「福祉を充実します」と言われて、「財源はどうするのか?」と質問が出るほうが普通だ。出ないのはどういう世界か。「景気対策をしっかりやります」と言うのに対して、「財政赤字はどうするのか」と相手が考えることを想定しないで、街頭演説ができるか(特定の支持者を集めたハコモノと違って、不特定多数に訴えるのが街頭演説。ハコモノなら「役人を動かしてやります」と言えば「やっぱり実力者だ」と納得するが、街頭でそう言ったら票は確実に減る、というのは都市部だけの話ではなくなった)。
 「消費税は上がるの?」との質問に、「いずれ上げなければならない」とだけ答えるのが「耳に痛い話もする」「国民に問う」ことなのか。それとも「いずれ上げなければならないが、その前にまず税のムダ使いや不透明な歳出を根本的に見直すこと、そして税制の新しいあり方の合意をつくること」と答えるほうが、「選択―責任」の関係を促進することにつながるのか。
 「カメの一声」の前にパックンされてしまう公共事業批判とは、どういうレベルのものなのか。むしろこれを使って、「都市対地方」や「ムダ使い」一般で(公共事業批判を)理解していた部分をさらに覚醒させ、同時に行政依存人の「見直し」と明確に対比できる高いハードルを設定しうる(例えば、財源も決定権も地方に移す、「地域のことは地域で決めよう」を基本にする仕組みに変える)ような争点設定ができるのか。
 年金、医療、介護をバラバラに「個別対策」として論じるのは論外としても、財源問題や損得論(受益と負担のバランス論など)からだけしか論じられなければ、国民主権再確立の対話は成り立たないだろう。成熟社会(少子高齢化はそのひとつの現象)における「公平」「公正」の実現は、発展途上―成長期の時代とは当然、同じではない。そこにおける公と私、さらには共(協)の役割と領域をどうするのか。そこからいかなる社会設計を描くのか。こうした対話を繰り広げることなしに、国民主権再確立は可能だろうか?
 対ロ交渉で「領土問題棚上げ」を示唆した御仁が、今度は外務省を「屈辱外交だ」と批難したという。狭いナショナリズムを煽る「屈辱外交」という言い方も、「領土問題棚上げ」という「売国」外交も、政権の維持・防衛のための「アドバルーン」のつもりか?
 内政におけるハコモノ・バラマキは、外交における迎合・接待外交と表裏一体である。民主主義の対話が成り立たない内政運営では、「自由・民主主義」を思想的基盤とした独自のアジア外交など、展開できようはずがないではないか。そしてこの軸が定まらないままだからこそ、96年の日米安保再定義以降、何一つ深まることのないままズルズルと、南北首脳会談後の新情勢(日米同盟の「再々定義」を迫られるような情勢)になすすべもなく立ち尽くしているのだ。
 冷戦後における日本外交の再点検が、これ以上遅延できないところにきているからこそ、内政における構造改革は待ったなしなのである。
 改革の遅れから生じる閉塞感を、偏狭なナショナリズムに結びつけるという安易な政権維持策を民主主義の力で阻止するためには、こうした内政―外交の回路をきちんとつくる対話ができなければならないだろう。自由・民主主義にかかわる民度が、その国の国力を決する。
 国民主権再確立の変化の兆しを、変革のエネルギーへと一歩一歩高めあげる、構造改革政治の全面的展開力と、それによる有権者再編のさらなる推進を! 「がんばろう、日本!」国民協議会から、それを発信しよう!
 そのうねりの中からこそ、日本再生のための矜持ある国民運動、その精神は育まれる! 日本人よ、胸をはって正面から国の行く末を考え、行動しよう!
 日本人としての自尊と主体性、歴史と伝統が、自由・民主主義の発展とむすびつく、そういう誇り高き国民精神をこそ、創りだそう!
 「がんばろう、日本!」国民協議会から、矜持ある国民運動を!
 過去・感情・観念という「私情」からは、「右か左か」「イエスかノーか」「アレかコレか」という論争(言い合い)のエネルギーは生まれても、改革のコミュニケーションは成立しない。ましてや構造改革の主体的エネルギーや新たなる公は、そこからはノミの一跳ねもしない。戦後政治―戦後保守は清算する以外にはなく、そこから構造改革の「新たなる公」を再構築する戦いが始まる(始まった)。
 新たなる公を希求する無数の小さきエネルギーを、「がんばろう、日本!」国民協議会へ結びつけ、日本再生の起爆力としよう!
 国を思い、人を思う、無数の小さき「志」を、「がんばろう、日本!」国民協議会へ結集し、日本再生のための国民精神を創ろう!
 未来への希望をつなぐための小さき覚悟、世直しのための無数の小さき無償の戦いを、「がんばろう、日本!」国民協議会へ! 共によびかけよう! 
 「あの時が転換の始まりだった」「その時、自分はこう行動した」と、胸をはって語れるように、この時代を生きよう! 「負けて目覚める」ところから、われわれはこうして国民主権再確立の戦いをおしすすめたと、真正面を向いて語れるように! 
 (「負けて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。日本の新生に先駆けて散る、まさに本望じゃないか」―『戦艦大和ノ最期』(吉田満)に記された特攻隊の若き士官の“遺言”)
 「がんばろう、日本!」国民協議会運動をよびかける、11月19日集会へ!