民主統一 254号 2000/6/1発行

総選挙に向けて
戦後政治を清算する力強き政治の新時代への一歩を踏み出そう!

新しい時代の幕を開ける有権者の覚醒と小さき行動を!
なるか、平成の草莽崛起

 きたるべき総選挙は、新しい時代―二十一世紀の幕をあける一歩となりうるか。「第二の敗戦」を契機に始まった有権者の覚醒は、どこまで成長するのか。「世直し」のための無数の小さき行動は、流れを変える独立変数として登場しうるか。
 世論調査によれば、「必ず投票に行く」という人は、前回(96年)よりも16ポイント増の68パーセントとなっている(96年は52パーセントで、実際の投票率は約60パーセント)。最低の二十歳代(41パーセント)でも、前回の一・七倍になっており、無党派層でも前回より20ポイント高くなっている。
 また選挙に対する関心も、「ある」(「大いに」「多少は」)が67パーセントで、「ない」の二倍となっている。関心があると答えた人の八割が、投票に「必ず行く」と答えており、「政治に対して関心がある」も、九四年四月以降で最も高い67パーセントである(以上は、5/31読売。他紙の数字も同傾向)。
 森内閣誕生のいきさつや「神の国」発言、その後の「釈明」などが、有権者の政治的関心を高めていると言えるが、一方でこの発言を選挙の際に「重視する」のは33パーセントと、「景気回復」の74パーセントより少ない(5/30朝日)。
 景気回復、社会保障、財政再建、教育など国民生活に直結する重要課題は、もはや待ったなし。安全保障についても、三割の国民が「戦争に巻き込まれる危険」を感じている(総理府世論調査。この数字は過去最高。ここでいう「戦争」とは「周辺有事」のことである)という、かつてない状況で迎える総選挙であるが、こうした課題をめぐる政策論争は、ほとんど絞り込まれておらず、むしろ国会では「神の国」発言が最大の争点となっている感さえある。
 一見、国民の政策的関心と永田町が懸け離れているように見えるにもかかわらず、国民は政治への関心を失っていないどころか、むしろ高めており、無力感やシラケではなく、「一票の力」が「ある」が「ない」をわずかだが上回っている(5/24朝日。昨年末に比べて「ある」は微増。この調査でも二十歳代の「投票意欲」が伺われる)。
 ここから見えてくることは何か。既存の政党や政治家を批判したり、不平・不満を言ったりするよりも、まずは自分たちが行動して変えよう! という有権者としての覚醒や気概が起こりつつあるということだ。
 国家も危機(財政は破綻状況、株価は低迷、失業や将来の不安、安全保障の不安など)、同時に社会も危機(秩序の崩壊、モラルの崩壊、責任意識の崩壊など)というなかで、「もう任せてはおけない」という自覚が生まれつつある。「いろいろ不満はあるが、そうは言っても自民党に任せておくしかない」という国民意識が、歴史的意味でも変わりつつある。「そうは言っても野党は頼りないから」という国民意識が、「自分たちが変えるしかない」となりつつある。そこから生まれるのは、「そのためには自分たちが変わらなければならない」「変わるためには、社会や時代の課題と向き合うことだ」という「新たなる公」意識への糸口である。
 だから、中途半端な「期待」なんかはしない。景気回復も社会保障も教育改革も財政再建も、トータルなビジョンを示せている政党があるかといえば、そんなものはない。ただこれまでなら、選挙の時には与党よりも野党のほうが、減税などの甘いささやきを有権者にしていたが、今回はむしろ野党のほうが「漢方薬」を、与党のほうが「甘い水」を有権者に提示していると言えそうだ。
 はっきりしていることは、自分の言動にきちんと責任をとれない政治家、説明責任を果たせない政治家、そういう人が集まって政権の問題、権力の問題を「私情」に流す集団(これは「自分党」とは言っても、普通「政党」とは言わない)、こういうことではまともな政策論争はできないということ、まずはこのことをはっきりさせようという「民意」が動き始めたのだ。
 政治は言葉が命だ。世界から老練な政治家が集まって、国益をめぐって熾烈な言葉の駆け引きを展開するサミットのような場に、その場のリップサービスで軽率に発言してしまうような人に、一国の首相として出てもらっては国益上、困るのだ。
 沖縄サミットへのメッセージというふれこみで、「戦争決別宣言」とやらが決議された。「国家間の対立や紛争を平和的手段によって解決し、戦争を絶対に引き起こさないように誓う」というが、この地域でもっともその懸念がもたれているのは、中台問題であり、朝鮮半島であり、核保有国同士の対立となったインド・パキスタンの紛争であろう。この現実といかなる意味でも切り結ぶことのない「戦争決別宣言」を、あえて衆院だけで与党のみによって決議することに、どんな意味があるというのか。
 同じ時期に訪中した与党幹部は、この決議の精神から、何を中国に伝えたのか。改めていうでもなく、中国はこれらアジアの地域紛争に何らかのかかわりをもっているのだから。まさか、「中国は『神の国』発言を問題視していない」ことを確認するために、訪中したのではあるまい。あるいは、台湾の新総統就任式への日本政府の対応について、「アメリカよりも控えめでよかった」と中国の了解を確認するために訪中したのでもあるまい。
 これでは、唯一地上戦を戦い、「国策」に一国民までが殉じた地、沖縄でサミットを開催しようとした、小渕前総理の「政治家としての個人的思い」すら、踏みにじられたと言わざるをえないではないか。
 国家の危機と社会の危機が同時に起こっているという時に、これに立ち向かう「力強い」メッセージや決断、志をいっさい発信できず、「やさしい」「おねだり」のメッセージしか伝わってこないのでは、はたして政権政党と言えるのか。その職責に対する自覚はあるのか。その土台がなくては、政策の論議などできないではないか。
 有権者としての自覚を持ち始めると、その目線はこういうものになってくる。
 「政党といっても政治家の当選したいという都合が優先され、看板だけの政党ばかりかもしれないが、それは政策を他人任せにしてきた有権者にも大きな責任がある。
 みんなが声を上げ、さまざまな政治家に呼びかけて、政策をわかりやすく説明してほしいと言い、政党として明確な政策体系を示すように訴えかけるべきである。政党の立場がまだはっきりしていないのならば、政策を作るプロセスに参加したいと言って、押し掛けて議論をするということを考えてもよい。
 総選挙も遠くない。社会保障が不安だと思うなら、この機会を生かして議論を巻き起し、政党の政策観を明確にさせるべきである。そんな積極的な有権者が現れてこない限り、漠然とした不安が解消される道はない」(飯尾潤・政策研究大学院大学教授 4/28読売)
 こういう感覚を、普通の有権者の「生活の常識」にしてもいいのではないか、ということなのである。そのためには、永田町がどうのこうのではなく、まず自分たちが行動しようということなのだ。
 今回の選挙では、有権者が企画する候補者の公開討論会の動きが、全国に広がっている。「苦い薬」の政策なのか、「甘い水」の政策なのか。それは、どのような有権者意識に立脚しているのか。候補者に何かの思いや志はあるのか。自分たちが動いて、そうした判断材料をつかみ、それを他の有権者にも伝えようとする。
 吉田松陰は、武士による改革の限界から、庶民の決起と志士の連動を説く「草莽崛起」を唱えた。永田町内の再編・できあいの改革論の枠組みそのものを変える、平成の草莽崛起―有権者の覚醒と無数の小さき行動こそが、時代を前にすすめる独立変数たりうる。

戦後政治を清算する力強き改革政治をうちたてる一歩を!

 「神の国」発言とそれをめぐる顛末は、戦後政治の衰亡を端的に表す風景となった。
 第一に、発言の真意が、日本の伝統や歴史的価値を見直そうというところにあったというなら、なぜそれを党首討論などで、正面から論争しようとしないのか。それを“逃げて”、なぜ「改憲論者ではない」という釈明に逃げ込むのか。すでに国会に憲法調査会が設置され、少なくとも「論憲」は前提となっているときに、である。日本の伝統や歴史的価値を見直すことと、憲法とは相反することなのか。国民の一角には、国民主権など戦後憲法の基本理念を踏まえたうえで、日本の伝統や歴史的価値をグローバル時代に通じるものとして新たに加味した憲法を、という議論が生まれているにもかかわらず。こうした覚醒は、まるで視野にはいっていないようなのである。
 じつはここに、戦後保守の病理がある。いうまでもなくひとつは、「自主憲法制定」を綱領としながら、実際には「護憲」スタンスを貫いてきたという「あいまいさ」である。しかもこの「護憲」は、ある意味では社会党以上に筋金入りのものだった。(冷戦イデオロギーに依存し、したがって冷戦の終焉とともに風化してしまうような「護憲」では、ここに包摂されるのは当然であろう。)しかしこの「あいまいさ」は、自らを見失わせる。国民主権など戦後憲法の基本理念を踏まえたうえで、日本の伝統や歴史的価値をグローバル時代に通じるものとして新たに加味した憲法をという議論が、自覚的な国民のなかから生まれ始めると、その「虚ろ」は蜃気楼のごとく立ち現れてくるというわけである。
 第二に、「自主憲法制定」という論理に、正式にお引き取り願う時がきたということである。別の言い方をすれば「皇国史観」と「極東裁判史観」との分裂を、「居心地の良い膠着状態」としてきた空間とは別のところで、新しい憲法論議が始まっていること。それにまったくついていけないことの露呈である。
 憲法調査会が憲法の制定過程から論議に入っていることについて、例えばつぎのような批判をどうみるか。
 「憲法見直し論にとってもっとも大事なのは、法律論や歴史論ではなく、政治論なのである。もし憲法が『押しつけ』だから原点から違法であったという理屈に立てば、戦後日本の政治はすべて違法政治であり、戦後民主主義もフィクションであったことになる。(中略)『押しつけ』論者たちは、一体いかなる政治的結果を想定しているのか」
 「改憲は一国の大事である。それは戦前派や戦中派のルサンチマンを癒すためになされるべきものではない。それは人生の大半を二十一世紀に過ごすであろう世代のためになされるべきものなのである。今の憲法見直し論には、この視点がはなはだ欠如しているように思われる」(村田晃嗣「中央公論」6月号)
 「神の国」発言をめぐって、与党も野党も国民主権を当然の前提のごとく、論じている。だが、歴史的背景や文化的伝統と切り離された、無機質な「国民主権」なるものは、世界のどこにも存在しない。その意味で、主観意図がどこにあったにせよ、森総理の発言は、日本における国民主権の歴史的経緯を、あまりにも軽んじたものだと言わねばならないだろう。
 だが問題はその先にある。ここで与党も野党も前提としている国民主権とは、敗戦の焼野原での民主化体験を原風景としたもの、なのである。今期限りで引退する竹下元首相は、同じく引退する村山元首相との関係を、「われわれは五十五年体制じゃない、四十五年体制だったんだよ」と語っている。戦後憲法の原点もここにある。戦争体験と戦後民主化体験を原点として共有する「戦後政治」にとって、冷戦イデオロギーの「右・左」は虚構にすぎなかった。
 戦後民主化体験の基礎にあった「貧しさ」が、次第に過去のものとなるにつれて、日本人の憲法観は「一に生命、二に暮らし、三、四がなくて五に自由」(安念潤司・日経4/19)といったものになっていく。戦後民主化体験を原点とする国民主権にいつまでも止まっていていいのか、という問いを発することができなかったら、欲望民主主義のドロ沼に沈むことになる。
 衰亡する戦後政治に退場を促す、新しい時代の風景が形をあらわすにしたがって、虚構の「戦後保守」は蜃気楼となり、その実体はむきだしの「私情政治原理」となる。これが「森の中」(森・野中)政権である。
 いま問われているのは、そして自覚しつつある国民が求めているのは、焼跡の戦後民主化体験に替わる、新しい民主主義や自由、国民主権の原風景を確立することである。
 政治とは現実に起こっている問題の解決能力のことであり、国民主権とは、国民が選挙を通じて問題解決についての選択の意思を表し、責任の一端を担うということなのである。飢餓体験と「貧しい」原風景が過去のものとなって以降、「新しい公」を創ることを怠ってきたところから派生している停滞や歪み、「正義なき公平」や「奴隷の繁栄」から生じた諸問題、そして改革の先送りからくるしわ寄せや不安。こうした現下の諸問題を、いかに解決するのかをめぐってこそ、国民主権の真価が問われる。
 こうした現実の諸問題から遊離して「日本の歴史と伝統」を語ったり、憲法改正の是非を論じたりしているところからは、国民主権の発展はない。国民の六割が憲法改正に賛成ということは、こうした現実の問題の解決能力を求めているということであり、これを新しい時代の国民主権の発展と構造改革へと結びつけていく、力強き改革政治をうちたてることこそが求められているのだ。
 戦後政治を清算したその向こうに見えてくる、政治論争の舞台はそういうものにしようではないか!
 そのために今回の総選挙では、衰亡する戦後政治に替わる新しい時代の志・思いを持った候補者や育て甲斐のある候補者、それに力を貸すことができる候補者を選ぼう! 

自由・民主の東アジアとともに歩む、
「がんばる日本と日本人」の回復宣言を!

 陳水扁・中華民国第十代総統は、就任演説でつぎのように述べている。
 「われわれが本日ここにいるのは、新総統の就任を祝うためだけではなく、ようやく手に入れた民主の価値の証人となり、また新しい時代の始まりの証人となるためなのです。
 二十一世紀の到来を前にして、台湾人民は民主的な選挙によって歴史的な政党間の政権交代を完成させました。これは、中華民国の歴史上初めてというだけでなく、世界中の中国人社会にとって画期的な里程標となるものです。台湾は、アジアにおける民主経験にとって新たなモデルを打ち立てただけでなく、全世界の『民主化の第三の波』に感動的な事例を付け加えました」
 「私は、政党間の政権交替や政権の平和的移行の意義は、単に『人や党の交替』にとどまらず、さらには『朝廷の交替』による権力移行などではなく、民主的な手続きを通して国家と政府の権力を国民に返すことである、と深く理解しております」
 「政党間の政権交代は、決して過去のすべてを否定するものではありません。歴代の執政者の国家や国民に対する貢献を、われわれは公正に評価する必要があります。李登輝・前総統が過去十二年の執政において民主改革を推進し、卓越した功績を残したことは、国民より最高の賛同と心からの感謝を受けるべきでしょう」
 「選挙の過程においては、多くの台湾人民がこれに積極的に参与しました。互いに異なる主張や立場があったとしても、一人ひとりが政治理念や国家の前途のために、勇敢に初志貫徹した気持ちは同じものです。選挙の終了は和解の始まりです。感情的な場面が幕を下ろせば、理性的な場面が幕を開けるでしょう。国家利益と国民の福祉を最高原則とし、今後は与党であれ、野党であれ、国民の付託に背くことなく、自らの職責を尽くし、政党間の公平な競争や民主政治における相互監督、均衡の理想を実現しなければなりません」
 「公平な選挙が行われ、包容力と信頼感のある民主社会は、国家の進歩の最大の原動力です。国家利益が政党の利益に優先されるという基礎のもと、われわれは、全国民の意思と与野党のコンセンサスを凝集し、国家の進歩や改革の推進に着手しなければなりません」
 ここに、「民主主義や人権は欧米の価値観だ」「アジアにはアジア流の民主主義がある」というへ理屈は断たれた。自由、民主、人権などを戦いとる道筋には、各国の歴史的特異性があり、それぞれの文化的背景があるというだけだ。ファシズムや全体主義との戦いのなかから、「自由で民主的な基本秩序を犯すものには自由や民主的権利を制限する」という民主主義や政党政治が育ってくるところもあれば、軍事政権や独裁政権との命がけの戦いのなかから、自由・民主を手にし、政権交代と政党政治を確立してゆくところもある。あるいはまた、欲望民主主義のドロ沼の中から這い上がってくることを通じて、国民主権・有権者の自覚を手にしてくる(政権交代や政党政治はその基礎の上にはじめて可能になる)道もある、というだけのことである。
 自由・民主・人権を「欧米の価値観」として、もっぱら経済発展を競い合うという時代が終わり、東アジアにおいても、自由・民主・人権、国家と政党政治、国民主権の主体化などをめぐる「民度」を競い合う、新しい時代が幕を開けようとしている。だからこそ、飢餓体験(戦争体験の大半はこれ)と貧しさの原風景が過去のものなってなお、「一に生命、二に暮らし、三、四がなくて五に自由」ということにとどまっていた国民の憲法観―国民主権の民度が、新時代への脱皮へどこまで成熟しているのかが、きたるべき総選挙では問われる。
 業績評価選挙は、政党政治確立への第一歩だ。情や損得、コネで政治家を選んでいたのでは、「政治理念や国家の前途のために、勇敢に初志貫徹した」からこその和解や、「政党間の公平な競争や民主政治における相互監督、均衡」「国家利益が政党の利益に優先されるという基礎」(いずれも陳水扁総統演説より)という政党政治・民主政治の原則は、いつまでたっても絵空事に終わる。政策や公約で検証する、せめて業績で評価する。そういう選び方をしたいものである。
 その先には、参院選や都議選が控えている。総選挙の結果次第では、次の衆院選も近いかもしれない。国民主権を継続的に発展させようではないか。そしてその中から、開かれた政党と有権者との社会的契約・信頼関係を築いていこう。それこそが、抜本的構造改革の原動力である。そして(帝国憲法はもとより、戦後憲法でもなしえなかった)国民主権による初めての憲法制定―そのための力強き国民運動を起こしていこう。
 自由・民主の東アジアの一角に肩を並べるための道すじは、このようなものとなろう。来るべき総選挙をその第一歩へ!

一人ひとりの気概で日本を変えよう!

 国民の政策的関心は、景気回復、社会保障、財政再建、教育などに集まっているが、「しっかりやりますから、大丈夫です」とか「今度近くに◯◯をつくります」とか「◯◯料金はしばらく徴収しません」という話で安心・納得する世界での「政策」と、それでは納得できない世界での政策とでは、意味が大きく違ってきている。(当然、有権者と政治家・政党との関係の基礎や作り方もまったく別世界になってくる)。
 後者が求めているのは、つぎはぎの制度いじりの話ではなく、政策の体系であり、制度を支える基本的な考え方―その応用で制度全体が理解できるような骨太の政策体系である。
 そこからすれば、「景気回復優先か、財政再建優先か」とか「社会保障の負担増を肯定するか、否定するか」といった設問は、意味をなさない。税制、財政、社会保障を一体構造として議論できるかどうかが問題なのだ。「貧しさ」の原風景が残っていた時代の「公平」原理が、今や新たな社会的不公平さえ生んでいるなかで、新しい時代の社会的公正の価値観・基準をどう創るのかということである。
 また公共事業にしても「必要か、必要でないか」ではなく、(財源に制約があるなかで)「道路建設を選ぶのか、老人病院を選ぶのか、介護の人材育成に使うのか」を地方が自ら選ぶ―そのために財源も権限も国から地方に移す、という全体像をどこまで語れるか。
 教育にしても、制度改革を論じるなら「社会の運営原理を反映する」ための一貫性を、そして「人づくり」ということで言うなら、「貧しさ」の原風景が過去のものとなった時代の「自尊と主体性」「新たなる公」をいかに創るかとして語れるのか。
 そこから憲法についても、一般的な改憲の是非ではなく、首相公選制のためには憲法改正が必要になるとか、東アジア地域安保のためには現行の集団的自衛権を乗り越える必要があるから憲法改正を、あるいは国民主権を保証するという意味では、まず憲法改正手続き法を制定すべきとかという論議が、どれだけできるか。
 まずは業績評価選挙ということを、有権者の常識にしよう。そして志や思いのある候補(何を託したのかがわかる候補)、育て甲斐のある候補を選ぼう。そして多少「苦い薬」でも、「こういう社会にしよう」という基本的な考え、政策体系が見えてくる公約かどうかを吟味しよう。
 投票日まで、公報や政見放送を十分検討し、また民間団体が提供している「評価材料」も参考にし、家族や仲間同士で議論しながら、一票を最大限、有効に行使しよう。
 一人ひとりの気概が、日本を変える。がんばろう、日本!