民主統一 249号 2000/1/1発行

21世紀日本への決断と選択の年
“地球有限時代”における国民国家の再構築にむけた構造改革元年へ

21世紀の課題にいかに向き合い、21世紀にむけて日本の日本たる所以をいかに語るか

 二十世紀最後の年の幕が上がった。二十世紀の歴史のなかで問われた課題の少なくない部分は、その決着を二十一世紀に持ち越さざるをえないだろう。だからこそこの一年は、二十世紀に何が問われ、それにいかに挑戦したのかを、次世紀に引き継ぐべき教訓と方向として整理しなければならないだろう。
 今年はまた「選挙の年」でもある。わが国の総選挙はもちろん、韓国・総選挙、アメリカ・大統領選、台湾・総統選など、二十一世紀のわが国と東アジアの将来像に大きく関わる選択が、各国国民によってなされる。各国の民意、そして政局というものが、二十世紀から二十一世紀への「橋渡し」に大きく影響し、関連する。
 冷戦体制の崩壊は、間違いなく二十世紀の人類史の大きな転換点を象徴する出来事であった。
 それは単に、戦後米ソ体制の終焉というにとどまらず、フランス革命をメルクマールとする近代国民国家の再構築という新たなステージの開始であり、そして工業社会からポスト工業社会への抜本的転換―社会総体の創造的破壊―の開始でもあった。(「金融革命」「IT革命」など、この時期の経済社会の諸問題が「革命」と称されたのは象徴的である)。
 米ソ体制が、「第三次世界大戦」を伴わずして崩壊したことは、工業社会・近代国民国家原理という人類史上の一ステージの最終幕たる「覇権政治システム」と国家モデルに替わる、新しい政治システムと国民国家の再構築へと挑戦すべき時代の開始を意味していた。さらにそれは、農耕社会と工業社会が生態系の収奪の上に成立し、無限のフロンティアを前提としていた(覇権政治モデルはその上部構造の最終形態である)時代から、「地球有限」という哲学を前提として、政治、経済、社会、人間の全てを再構築することへの挑戦の始まりでもある。
 全面核戦争の危機と地球温暖化の科学的知見が、世界政治を大きく転換させたことは、「地球有限」時代の政治において、「未然阻止」という英知が求められることも示したと言えるだろう。そしてそのような政治的イニシアティブを可能にする民意の成熟とは何かもまた、新たな課題となった(民主主義と市民的自由の発展、飛躍)。
 まさにこうした人類史的な転換における、新たな国民国家の役割・定義―再構築の課題を、われわれは“地球有限時代”における国民国家の再構築にむけた構造改革(構造革命)と呼ぶのである。二十世紀最後の十年は、こうした構造革命のための最初の試練、模索、試行錯誤の十年だったと言えるだろう。
 ヨーロッパではEU統合とNATO拡大という形で、国民国家の再構築への試みが進められた。通貨と安全保障という、旧来の国家主権の骨格をEUに「委譲」することは、国家がなくなることを意味しない。むしろEUは、二十一世紀の国際社会におけるヨーロッパの国益貫徹の手段であり、ここでEUと各国とが国民国家の新たな役割を引き受け直す。一方でもはや人権も、旧来の主権国家だけがそれを守るのみならず、NATOが人権のために国家主権に「介入」する(人権が内政不干渉の原則よりも上位に立つ)場合もありうる。こういうステージに入った。
 アジアにおいては、「奇跡」と言われた経済成長が「共通の利益」を形成する第一歩となったが、それを担保し発展させる政治的な合意形成とそのシステムへの試練と挑戦は、むしろこれから始まる。九七年の金融通貨危機とそこから生起した諸問題は、この面におけるアジアの「ぜい弱さ」を、したがってこれからの課題の所在を明らかにしたと言えるだろう。そして、「アジア的価値」を(欧米に)対置することからでは、この試練と挑戦に耐えられないことは、はっきりしたと言える。
 言い換えれば、分断と植民地支配というアジアの「苦難の近代」を克服する道筋は、「アジア人のアジア」を強調するところからよりも、「民主主義と市民的自由」を発展させるための国内改革および対外関係構築から開かれるのであり、そのための「共通の利益」(アジアにおける構造改革)を見い出し合意するところから、国民国家の再構築の戦いが始まるのである。アジアにぼっ興しつつあるナショナリズムを健全に発展させる道も、これ以外にはない。
 二十一世紀初頭にかけてのアジアのこのような挑戦は、わが国近代の総総括の好機でもある。脱亜入欧から始まった欧米コンプレックス(戦後はとりわけ対米コンプレックス)とアジアへの慢心というわが国近代の心情的歪みを清算し、「日本の日本たる所以」を正面から語ることができ、またそれに理解を示す盟友をアジアに見い出しうるためには、“地球有限時代”における国民国家の再構築にむけた構造改革の幕を、わが国も先頭に立って開けていかなければならない。
 本年行われる総選挙は、かような意味で、本格的な構造改革への踏み込みに賭ける日本国民の選択が問われるものである。

現状維持に汲々とし、ダラダラと衰退していくのか、
それとも創造的破壊=構造改革への踏み込みに賭けるのか

国民内部の利害の亀裂を政治の舞台に登場させる政治の力強さと統合性を

 現状維持に汲々とし、ダラダラと衰退していくのか、それとも創造的破壊=構造改革への踏み込みに賭けるのか。本年の総選挙は、このような選択が国民に迫られる。また政党は、そのような選択肢を提示して、この選挙を戦うことが要求されれ、それができない「政党」は、本格的に国民から見捨てられる。(12月28日付「読売」新聞の調査によれば、政治への関心が上昇するにつれ、現状の政党・政治に対する不信・不満が「危機的水準」(同紙)にまで高まっている。そして「支持政党なし」のうち二割は、以前は自民党を、一割は社会党を支持していた人々である)。
 生き残るためには「前に向かって跳ぶ」以外にはない。
 今年一年の間に、次の転換への糸口を見いだせなければ、来年以降の展望は見えてこないということは、多少なりとも経済や社会、国際情勢の動向を考えている人々(考えざるをえない人々)の間では共通の前提認識となっている。国債の対GDP比が戦時並みという財政状況は、その象徴であろう。構造転換のための喰いつなぎに費やすことのできるカネもヒト(人的資源の蓄積)もそろそろ底をつき始めている。これ以上の「先送り」が許されない、内外からのタイムリミットも迫りつつある。
 ここ十年の改革とは、一言で言えば旧体制(五十五年体制)の基盤を破壊することであった。細川政権から自自連立までは、この点において合意した連立政権であり、自自公はその最終幕である。政官財の癒着とか、省庁連邦システムとか、護送船団方式とか、一国平和主義などと、さまざまに称されていた旧体制の制度的基盤をようやくまがりなりにも崩した途端、問われるのは、「改革」の方向性である。
 現状維持のための「改革」なのか、創造的破壊のための改革なのか。それはまた「安心―お任せ」社会をつくるのか、それとも「選択―信頼」社会をつくるのかということとも一体である。自自公の遠心過程は、まさにこの段階で始まったのであり、次期総選挙はその選択を国民に問うものなのである。
 今日の転換が、現状維持でしのげるようなものではないことは、前章で述べた通りである。そしてそのことを生活実感から感じ取り、だからこそ、本格的な構造改革への踏み込みを要求し始める有権者の自覚は、拡がりつつある。「第二の敗戦」で覚醒し始めた国民が、まずそのことを感じ始めた。したがって彼らは自自連立については、基盤改革の推進および、「第二の敗戦」後の緊急避難として合意した。それゆえにまた、自自公に対しては七割近くが「支持しない」とし、赤字国債の増発には四割が、介護保険の見直し(先送り)には六割が否定的で、小渕内閣についても、「迷走」「政策が悪い」として不支持(40.2%)が支持(36.2%)を上回っている(12月21日付「日経」世論調査)。
 今や国民の利害の亀裂は、現状維持のための「改革」を求めるのか、創造的破壊=構造改革を求めるのか、という線に沿って走り始めている。そしてこれは、単なる「経済的利害」に止まらない人生設計や社会的責任などにも関連する、深く鋭い生活実感となりつつある。
 これは従来になかった亀裂である。この亀裂はもはや、利益再分配・権力再分配という「権力闘争」の枠の政界再編で統治できるものではない。どういう社会を創るのか、どういう国を創るのか、したがってまたどういう「人づくり」が必要なのか、そのためにどういう生き方をするのか。それらが相互に連関した改革の総合性が問われている。
 ここから、本格的な政党政治への底が見えてくる。ここから、本来の意味での政策や理念をめぐる政党再編の糸口が始まる。そしてかような意味で、政党政治を解体して「野蛮な戦争」に突き進んで行った「第一の敗戦」の時の国民の主体形成に歴史的にケジメをつける以外に、「第二の敗戦」の国民的総括は語れないだろう(形の変わった「一億総懺悔」としての「公的資金頼み」をよしとしない人々にとっては)。
 次期総選挙では、そのとば口を開けることが問われている。
 一方で、バラマキの効果がますます限定的なものとなり、現状維持の改革では安心できないという「不安」層も増大してくる。年金や介護などの「先送り」は、この人々にも「自分たちの代でツケが回ってくる」ということを実感させている。「今がよければいい」という文明圈の国民も、安心ではいられなくなってくる。ここでは、現状維持を自力でやるだけの自活力・エネルギーがあるのか、それさえ失った「公的資金頼み」「ぶらさがり」なのかという主体分岐が走りつつある。
 構造革命は、大競争時代を生き抜くためにだけ必要なのではない。一方で新しい「定常型社会」を構築するためにも必要なのである。“地球有限時代”というコンセプトは、近代の総総括の上に立って政治、経済、社会のありようを根底的に再編・改革するものであるが、同時に「普通の人々」が新しい時代をとらえる上でのキーコンセプトでもある。
 定常型社会とは、持続可能性を考えて現状維持を適確に行う社会であり、それを自力でやる活力と規範が普通の国民にあれば、一方で創造的破壊はスムースに進む。求められているのは、公的資金にぶら下がらずに、自力で・共助で共同体を維持していく活力と知恵であり、「足るを知る」「もったいない」という、かつては当たり前だった日本の庶民の生活規範を、原状回復することなのである。
 この世界に公的資金をバラまき続ければ、どうなるか。働くという意味さえわからなくなるような「人間崩壊」「社会崩壊」の様相を呈することは、ここ十年のわが国・社会が、残念ながら証明している。
 堺屋・経済企画庁長官の言葉を借りれば、こうした人々も含めて、今年は「われわれがいままで生きてきたのとは全く違う社会に生きていくのだ、ということ」を理解し、受け入れ、踏み切る、そのための最後の「移行期」だということになる。言い換えれば、人類史的な総括を背景としつつ、現状維持―安心という主体形成のところにまで、時代の転換を意識する(せざるをえない)情勢が煮つまりつつあるからこそ、これを統合しうる懐の深さ、歴史的大局観、総合性―人間的活動の総括としての政党政治が、本格的に求められる時代の幕あけなのである。
 民主統一同盟・「がんばろう、日本!」国民協議会は、かような時代の一翼を担い、ともに格闘すべく全力をつくす所存である。