民主統一 238号 1999/2/1発行

流れを変えよう!
国家的危機を国家的転換のチャンスへ転じる歴史の転轍手を

日本政治の閉塞状況を打開する糸口は生まれるか
自自連立は「平成日本」の転轍手となりうるか

 自自連立政権が発足し、国会では経済対策や周辺事態法など、わが国の命運に係わるといっても過言でない問題について、与野党間の論戦がはじまった。自自連立合意では政府委員の廃止が確認されており、それ自身も日本政治の活性化にとっての制度的条件となりうるが、そうであればあるほど、論戦の中身・政治家の資質が問われる展開となる。「政権の安定」(ただし衆院のみでの)によって政治に緊張感が失われてしまうのかどうかは、与党よりもむしろ野党(および自自連立批判派)の力量にかかっているといってもよいだろう。
 その意味で、以下のような指摘は興味深い。
 「『小沢一郎』とは、戦後政治の温室状態(一国平和主義のモラトリアム)に居すわり続けたい政治家にとって、常に安眠を脅かす存在である。と同時に、責任逃れの格好の“避難場所”を提供している、『両義的存在』である」(1/25産経夕)
 小沢氏とは反対の政治的立場に立つと思われる田中秀征氏も、次のように指摘する。
 「世上言われているような『選挙事情』や『生き残りのため』という理由も無視できないが、そういう次元でばかり見ていると、政治の大きな流れを見失う恐れがある」(現代2月号)
 小沢氏は、いずれ日本政治のねじれは解消され、二大政党制へと収斂していくだろうが、その時に自由党が存在しているかどうか、与党が何党か、首相は誰かはどうでもいいと述べている。また小渕総理は、「どんなに批判されても、自分が日本の悪いところをすべて背負って辞めてやる」ともらしていたという。
 まさに問われているのは、自自連立とそれをめぐる諸問題を、「失われた十年」とさえ言われる平成日本の、歴史的転轍手となしうるのかどうか、日本政治の閉塞を打破する糸口としうるのかどうか、ということなのである(自自連立を支持するにせよ、批判するにせよ)。
 「日本をどこに導こうとしているのか」という選択肢すら見いだせないというのが、日本政治の閉塞であり、平成日本が「失われた十年」と言われる所以である。しかしわが国が置かれた環境は、さらに厳しいものになっている。
 昨年秋の一連の首脳外交が端的に象徴しているように、ポスト冷戦期の過渡的な国家間関係は、急速に「ポスト冷戦の“終わりの始まり”」ともいうべき新たな段階へと再編・再定義されつつある。つまり各国の国益が再定義され、その貫徹をめぐる新たな舞台が再編されつつあり、東アジアはその焦点となりつつある。通貨・国際金融問題にせよ、安全保障問題にせよ、「ポスト冷戦の“終わりの始まり”」への再編の熾烈な攻防戦(国益の再定義と、その貫徹のための舞台を有利に設定し、また確保する攻防)を展開している国際社会で、変数たりえなければ、敗北するのは当然である。平成日本の敗北は、従属変数ともなりえなかった、ということにほかならない。
 日本の事情にお構いなく、「ポスト冷戦の“終わりの始まり”」という新たな国際社会の舞台は設定されつつあり、再び否応なく、他人のつくったルールによるゲームで、グラウンドのまん中に立たされざるをえない―これが始まった。ここで誰が、どのようにして、「前に向かって跳ぶ」ための決断をするのか。これが日本政治に問われているのであり、ここへ踏み込もうとしているのが、自自連立にほかならない。
 自自連立を批判する側に問われているのも、自自連立とは異なるスタンスで、ここへどう踏み込むのか―ボールをもって走ることであって、グラウンドの外からアレコレ言うことではない。そうしてはじめて、国民の中にも、「リーダーを選ぶ」責務―日本をどこへ導こうとするのかという選択に係わる国民としての責任の果たし方とは「リーダーを選ぶ」ことだ、というホンモノの有権者としての覚醒が始まる。
 かような意味において、自自連立をめぐる諸問題を、平成日本の歴史的転轍手としようではないか。

平成の内なる虚ろ=ポスト冷戦の市民主義的パラダイムと訣別し、日本の日本たるゆえんを再生するためのホンモノの改革の主体への一歩を

 「第二の敗戦」―平成日本の敗北は、ポスト冷戦期において何一つ、次の時代の再編にむけた準備をなしえなかったという意味である。歴史的な比喩で言えば、日露戦争後の二十年間を戦争景気(バブル)に酔った日本は、何一つ第一次大戦前後からの国際社会の変化についていけず、厳しさを増す列強の対日政策―抑え込みを予見することも、それに備えることもできないまま“つるべ落とし”のごとく「野蛮な戦争」に突入していったことを、今日どう教訓化できるのかということでもある。
 「第二の敗戦」を直視し肚をすえるということの、政治決断としての表現は、自自連立から始まった。これは事実である。「第二の敗戦」にいたったポスト冷戦期の“平成日本の甘さと軽さ”“愚者の饗宴”を終わりにする決断は、ポスト冷戦の市民主義的パラダイムからは生まれなかったのである。冷戦崩壊を「ひとつの世界」「ひとつの市場」「国民国家の退場」と無邪気に受け取る立場からの改革の小話では、平成日本の“内なる虚ろ”を埋めることはできない。この事実を直視するところから、すべては始まる。
 平成日本の“内なる虚ろ”を、国家主義的な何ものかで埋めようとする動きは、この事実を直視することを恐れるところから生じるものにほかならない。そしてそれに異を唱えながらも、明確な対抗軸を提示しえないというのも、同様である。「開かれたナショナル・アイデンティティー」「アジアの近代化の総総括と日本の日本たるゆえんの回復」とは、この相互関係そのものを克服する再編軸とその主体形成のことにほかならない。
 われわれはここで、再び歴史を教訓としよう。一九〇五年、日露講和条約に対して「獲物が少ない」と「屈辱講和反対・戦争継続」を叫ぶ民衆は、いわゆる日比谷焼き討ち事件をひき起こした。これは象徴的な教訓である。国際社会では、次第に列強の対日抑え込み政策が強化されていく中、これを冷徹に見通しつつわが国の活路を慎重に探るという忍耐強い政治の生存空間を許さなかったのは、なによりも戦争景気(バブル)の饗宴に浮かれ、「より多くの分け前」を要求する民衆であり、それが戦前の有権者であったということである。その後わが国は、いくつかの国家的転換の機会をことごとく逸し、“つるべ落とし”の敗北へと突き進んだ。
 歴史から学ぶとは何か。それは時代の転換とそこから必然的に生じる「国家的危機」にどう立ち向かうのか、その中で活路を見い出していくための粘り強さや現実主義、あるいは肚のすえ方―こうしたことの蓄積と継承が、歴史から学ぶということであり、このことでリーダーも国民も教育されなければならない。こうした準備も蓄積もないことが、わが国の危機の意味でもある。
 近代、とりわけ戦後世界にあっては、一国の政治体制は(どんな「閉鎖体制」であっても)国際社会との関連ぬきにはありえないのは当然である。冷戦後の世界的な再編の攻防に能動的にかかわれず、国家的転換に失敗した結果、旧い時代の国家の性格ではもはやついていけなくなるまでに、新しい時代の枠組み―国際関係が見え始めてきた―「第二の敗戦」とは、このことを意味している。
 平成日本の「第二の敗戦」に際して、これを国家的転換のチャンス(おそらくラストチャンスであろう)とする以外にないという決断を、誰が、どこから、どのように始めるのか。とりわけ、国家的転換が大きなものであればあるほど、それにはリーダーの決断もさることながら、国民自身の主体転換が不可欠であることは、日露戦争後の日本の歴史的教訓からも明らかである。
 日本政治の閉塞に関連して、リーダーの不在がよく言われるようになった。たしかにそれらには一理ある。しかしリーダーシップは優れた個人によって自動的に発揮されるというものではない(飯尾潤・政策研究大学院大学助教授「中央公論」2月号)。
 民主制―普通選挙制度を否定するなら別であるが、そうでないのなら、国家的転換の決断を可能にするのは、「自らの社会の命運を冷徹に見通しつつ、それに対して一定の責任を感ずることのできる有権者」にほかならない。「平成日本の第二の敗北」は、こうした有権者の覚醒を一部で促す契機となったことは間違いない。だからこそ、ふつうの国民にとって国家的転換に主体的にかかわる責務とは、そのためのリーダーを選ぶことなのだということを正面から問おうではないか。日本の日本たるゆえんを回復するための、ホンモノの改革のための無数の凡人の一歩を!