民主統一 231号 1998/7/1発行

国家衰亡の危機、「無力症日本」を再生する主権者革命の活力をいかにして生み出していくのか

米中主導の国際管理体制下におかれた「日本問題」、グローバリゼーションの進展の中ででの平成日本の「敗戦」を正面から直視せよ

 米中首脳会談は、アジア安定への米中の戦略的連携の一歩として、日本の金融構造改革を迫った。六月半ばからの円安・日本売りに対する「米中共同対処」(協調介入の決断は米中の利害の一致からにほかならない)から、一気に「日本問題」は米中主導の国際管理体制に入ったと言っても過言ではない。
 「日本問題」の底には、日本の政治への不信、不審がある。いつも「小出し」で「後手後手」の「先送り」政策、「危機」の実態が不明なまま、先行き不安にいらだつ国民、それでいながら政権の奇妙な安定。「改革」の必要性が叫ばれ、「改革」のプランは出揃っているにもかかわらず、改革を実行する「政治的意思」と「決断」だけが先送りされたまま、ついにわが日本は「自己決定・自己責任の資格なし」と宣告されようとしているのである。
 今回約束させられた経済構造改革を実行できなければ、ニューヨーク株価が暴落しても、人民元が切り下げられることになっても、アジア経済が再び危機に見舞われても、それはすべて日本のせいというシナリオがつくられたのである。
 ニューヨーク・タイムスは、「中国の活力、日本の無力症」と題する寄稿論文で、米中首脳会談はアジアの主役が日本から中国に替わったことを確認するセレモニーだとした上で、日本では経済の混乱が明白なのにもかかわらず、政府も有権者も大胆な改革を進めようとせず、旧式の国家資本主義にしがみつき、衰退の一途にあると論じている。
 まさに国家衰亡の危機は、あれこれの制度やシステムの問題といったレベルのことではなく、国民の精神のありよう、その反映としての“くらしのありよう”の問題である。「変えなければいけないということと、その影響の大きさとの間でとまどっている」。これが平成日本の十年間を挫折へと帰結させたメンタリティーであろう。
 国家の衰退は不可避である。問題はそれをくいとめ、新たな活力を生み出そうとする「偉大な精神」が、その国を滅亡から救うのだということである。歴史上の大国で、衰退の坂を転がり落ちた国と、衰退の中から再生への活力を生みだした国との違いはそこにある。中国の歴史がしかり。英国の歴史がしかり。そしてつい十年ほど前には「衰退」が論議されていたアメリカしかり。
 「偉大な国家を滅ぼすものは、けっして外面的な要因ではない。それはなによりも人間の心のなか、そしてその反映たる社会の風潮によって滅びるのである」(ジョバンニ・ボテロ)
 衰退を直視できずにズルズルと転がり落ちながら、「まだ何とかなる」という「気楽」な気分や、既得権益にもたれあう「なあなあ」といった旧来体質に変革を迫る主権者革命こそが、何よりも求められている。
 かつては中華文明に、近代においては西欧文明に「追いつけ、追いこせ」できたわが国は、歴史上初めて「国家の衰退」という問題に直面しているのである。この危機は、グローバル化の進展−国益の新たな貫徹形態の獲得をめぐる攻防戦の中での「敗戦」から起こった危機である。
 この「敗戦」が、「白村江の戦い」以来のこれまでのわが国の歴史における敗戦と決定的に異なるのは、敗けた相手の価値観を取り入れ、それに対する「追いつき、追いこせ」で次の国家目標を設定することが、もはやできないという点である。言い換えれば、「国家生存のノウハウ」(「国まさに滅びんとす」中西輝政・京大教授)こそが今、わが国の歴史上初めて問われており、平成日本はこの攻防において一敗地にまみれたということなのである。
 この敗北を直視できる活力は、開かれたナショナル・アイデンティティー、開かれた“攘夷”の主体性を獲得する闘いの中からこそ生み出されうる。
 「国家再生のノウハウ」とは「国柄を変える」(中西教授)ような戦いであり、それは時代のトレンドにどう合わせるかからではなく、「守るべきもの」「変わらずにありつづけるもの」のためにこそ、自ら変わらねばならないという「決断の戦略」(中西教授)が求められる。
 薩英戦争、馬関戦争の完膚なきまでの敗北によって西欧文明の力を知った志士たちが、「守るべきものを守るために」、決然と開国倒幕に転じたように、われわれもまた決然と、グローバリゼーションの推進をテコとして、新時代のナショナル・アイデンティティーを獲得しなければならない。

国家の命運を決する主権者革命にむけた草莽佝崛起のエネルギーを呼び起こせ
自己責任原則にたった政治家・政党と主権者の緊張関係を

 先の国会で野党提出の「首相不信任案」が否決されたと同じ時に、市場は「円・株・債券」のトリプル安という「橋本不信」「日本売り」を浴びせかけ、これが今回の「国際管理体制」の発端となった。まさに今、国家の命運を決する主権をも他に委ね、放棄するのか、それとも国民の手に取り戻すのかが問われているのである。
 「政治家にはリーダーシップとともに、権力行使に伴う責任が求められる。しかもそれは『最終責任』への決意によって支えられなければならない。つまり、だれかに頼り、あるいは責任を転嫁することを常とう手段とする生業ではない。ましてや選挙民の利益を伝達するだけといった『気楽な』生業でもない」(佐々木毅・東大教授)。
 しかり。自己責任原則にたった政治、その主権者と政治家との緊張関係こそが求められている。自己責任原則に立たない有権者は、官僚任せや一部の利益しか代弁しない「政治家」しか育てることはできない。その意味で、わが国の「政治家不況」の責任の一端は、有権者にある。
 「自らの社会の命運を、政治家ほどではないにしろ、冷徹に見通しつつ、それに対して一定の責任を感ずることのできる有権者があってこそ、初めて一級の政治家が登場する舞台が整うのである。それには本物の政治家を見抜き、それにしかるべき敬意を払う能力が有権者に必要だということでもある」(同前)
 参院選の争点は、文字どおり「国の命運」である。「日本問題」の処理を、米中主導の国際管理体制に委ねるのか、それともこれ以上の衰退をくいとめるために挑戦するのか。この「国の命運」を、政治(政治家・政党と主権者)がどのように決するのか。
 この問題への責任ある態度をはずして、「国家衰亡の危機」を見て見ぬふりをして、あれこれの「経済対策」や「構造改革」などのビジョンを語っても、空虚な空文句でしかない。ましてやこの問題を外したところで、政権や政策への信任、政治の安定を云々しても茶番でしかない。参院選が「争点がない」と言われているのは、このことにほかならない。
 危機に対処するためにはまず、危機の実態を正面から明らかにし、そこからそれぞれの主体の自己責任・自己決定を問わねばならない。危機の実態を正面から明らかにしようとしないのは、統治の側の責任を問うことを避けているからである。これでは自己責任原則に基づいた政治家・政党と主権者との緊張関係は成立しない。
 「国家衰亡の危機」を正面から語り、主権者革命のエネルギーに訴えることのできる政治家・政党とは何か、その可能性に挑戦しようとしている政治家・政党とは何で、それをしようとしない政治家・政党とは何か。
 第一声で、「政治に安定を取り戻すのが一番大事だ」と訴えた橋本総理。「自民党が勝ったら、日本は自ら改革する能力がないと国際社会でみられ、日本売りが殺到するのではないか」と訴えた菅・民主党代表。「海外からも信用されず、米国に頼んだところ抜本的改革をしろと言われた。日本人として恥ずかしい」と小沢・自由党党首。
 国の戦略的命運を決する現下の攻防に、どこからどう係わろうとしているのか。ここから政治家・政党の「格付け」が見えてくる。
 そして国家の命運を決する主権者革命を提起し、そのエネルギーを呼び起こそうとしている政治家・政党とは何か。それがない政治家・政党とは何か。主権者革命の訴えに呼応する主権者とは何で、「無力症」にひたる国民とは何なのか。こうしたことが、今回の参院選の中から次第に鮮明になってくる。
 もはや、国民一般、主権者一般はない。
 「自己責任の原則に立った政治は、日本人が幸せとは何なのかを改めて考えるところから始まります。
 戦後は他人と同じであるということが幸せの大きな源泉だった。(略)これを切り替える必要がある。今は、隣の人、他人と同じであるだけでは、自分が埋没してしまい、自分が幸せであるかどうか分からなくなる。(略)自分が何ものであるかということは、いくらテレビを見ても、音楽を聞いても分からない。自分が何であるかは自分で決めるしかない。自分が幸せであるかも、自分で決めるしかないんです。そこで、他人を幸せの基準にするのはやめよう。自分が何をやりたいか、自分がどうすれば幸せであるかということを自分で決めよう。有権者がこういうように考えた時、初めてそこに政治が始まるのです。
(略)自民党はこういう(有権者のエネルギーを汲み上げる)構造を持っていません。自民党は大多数の平均的な人は、温泉に一泊旅行したら幸せじゃないかとか、公共事業がとれたら、橋がかかったら幸せじゃないかとか、そういうお仕着せの平均値の幸せを考えて、政策で利害を誘導する。政治にこういう側面はあってもいいでしょう。しかし、近代的ではない」(橋爪大三郎・東京工業大学教授)
 自己責任・自己決定が前提になりつつあるところでは、リーダーシップ論も変わってくる。
 「私は(中略)民主主義というのは『交代可能な独裁』だと考えている。選挙によって、ある人物なりある党に委ねた以上、原則としてその任期いっぱいは、その人物なり党の判断にまかせるべきである。それが間違っていたら、次の選挙で交代させればいいのである」(菅直人「大臣」)
 ここには小沢氏に共通するリーダーシップ論がある。それに対応して「菅さんは『俺についてこい』と言ったことはない。カネや票の面倒をみる力もないし、みようという気もない。菅さんの側近たらんと思えば、同じスピードで走ればいいし、離れたければ遅れればいい。それでも菅さんはとっとと一人で走っていくだけ」というリーダーとの関係論を生み出す。
 ここからみると、「変えなければいけないということと、その影響の大きさとの間でとまどっている」リーダーや政党が、どういう国民、有権者を相手にしているのか。「無力症」におちいる政治・政党とぶらさがりの国民との関係とは何なのかが見えてくる。
 そしてこの構造の自己改革に踏み込める政治家・リーダーと、わかっていてもできない、あるいはこの構造と融合することで生き残ろうとする政治家・リーダーの、決断の意味の違いがはっきりしてくる。
 次第に、国の命運を決する主権者革命を呼び起こすための実践的諸問題が、見え始めてくるのである。

地球益・国益・郷土愛を結びつける開かれたナショナル・アイデンティティーを獲得しよう!
開かれた”攘夷派”の結集を

 わが国再生の活力を、どのような方向に求めるのか。  冷戦構造の崩壊を機に進んだグローバル化は、国家のアイデンティティーの再定義、国益の新たな貫徹形態をめぐる模索と再編の激しい攻防として進んだ。EUは新たな地域共同体構想としてここに挑戦し、東南アジアも地域協力の一定の基礎の上で、国家と社会の関係の新たな試練に直面している。そして米中は、それぞれの方法で紆余曲折を経ながら「責任ある大国」としての、アイデンティティーと国益の再定義に一段階の区切りをつけ、新たな大国ゲームのルールに合意した。その過程では、日本の出番もなかったわけではないが、自らその機を逸したのである。
 グローバル化のなかでの国家アイデンティティーの再定義と国益の新たな貫徹形態の獲得に失敗し、それに照応した構造改革に挫折した。これがわが国の「敗北」である。
 これに対して、大国ゲームの論理で対抗しようとするのは愚の骨頂である。あるいはまたグローバル・スタンダードとはアメリカン・スタンダードにほかならないというアンチ志向からも、いかなる活力も生まれない。
 こうした「古色蒼然たる国家主義」や一国主義的ナショナリズムはもとより、それと価値観において手が切れていない“できあいの国家論”からでは、今日の国家衰亡の危機に立ち向かうエネルギーは生まれてこない。「代わりがいない」ことが、政権存続の最大の根拠であるという奇妙な政治的安定は、ここから生じている。
 戦後日本は、大国や覇権国家としての道は断ったが、それに替わる別の存在感、国家アイデンティティーを獲得する主体的戦いは放棄してきたのであり、直接的には冷戦崩壊前後からのこの時期に、大国の論理とは別の方法・論理での責任の取り方、存在感を獲得する戦いをしてこなかったことが、今日の敗北の原因である。
 もはや一国主義国家形成の道へ帰る退路は断たれた。一国主義国家形成から脱却するための「敗北の教訓」として平成日本の挫折を直視し、地球益・国益・郷土愛を結びつける開かれたナショナル・アイデンテイティーを獲得しよう。