民主統一 225号 1998/1/1発行

地球益・国益・郷土愛をむすびつける新時代へ/抜本的な変革のための行動と組織づくりを

前に向かって跳ぶ以外にはない「退路なき情勢」を、新時代への飛躍のバネに転じよう

 97年、それは時代の転換の荒波の中で、ホンモノの改革派なのか、それとも弥縫策としての改革なのかが厳しく問われ、次の時代に生き残る力を持っているのか、それともこの激流のなかで沈没してしまうのかとして、全ての主体が選別・淘汰された。
 内外の情勢は、もはや冷戦時代=55年体制の残滓との関係でわかったつもりになる余地はない。後ろをふりむいて、あるいは現状の閉塞状況に対置して「改革」を語るものは、破綻連鎖のなかに沈没するほかはない。生きようとするものにとっては、前に向かって跳ぶ以外にない情勢の到来である。
 98年、この「退路なき情勢」を生き残りのためのバネに転じる気構えのあるものにとっては、新たな飛躍のチャンスが生まれはじめている。崩壊し、液状化していく旧い体制やシステム、人間形成と戦って次の時代の方向を深めてきたものにとっては、新しい蓄積のチャンスが拡がりつつある。
 もはや現実の生活それ自身が、弥縫策としての改革を徹底的に淘汰し、抜本的な再編−革命を欲している。旧い体制やシステム、価値観、その人間形成の総破綻こそは、新たな再編のチャンスなのである。
 いまや破綻連鎖に陥っている旧い国家ー社会関係の総体、政治・経済・社会の相互関係を、どこに向かって再編するのか。
 「肥大化し社会と法の上に君臨しつつ、今や機能不全に陥り、腐臭を放ちはじめている旧い政治行政権力を、主権者自身の力で呑みつくし、社会自身の自主的統治に委ねるべきものと、新たな国家の役割として再編すべきものへと選別・淘汰していくこと繙繙改革の本質はここにあります。つまり問われているのは、国家への隷属でもなく、『根なし草』でもない、新しい《より社会化された国家》を創りあげる主権者自身の自立革命であり、われわれ自身の『生きる力』にほかなりません」(12・7基調)
 当面の問題は、潰すべきものを潰し、生きる意欲のあるものに次へのチャンスを与えるための破綻処理メカニズムをどうつくるかである。腐ったリンゴは分離しなければならず、生きる意欲のあるものとないものとの「不公平な平等」ではなく、リスクを負って挑戦しようとするものとの間に「公平な格差」をつけなければならない。改革の迷走ー無為無策が招いた破綻連鎖は、弥縫策としての改革に延命を託してきたものを潰し、ホンモノの生き残りの活力がどこにあるかを現実の中から選別していく、抜本的再編の本格的開始であり、次の再編への展望を持っているもの、あるいは持ちつつあるものにとっては、「売り」ではなく「買い」のチャンスにほかならない。
 政府はこの間の金融危機に対する対策として、総額30兆円の資金を投入する。「アジア経済の安定のための防波堤」というわが国の役割(過渡期の不安定性に対処する公共財としての役割)からすれば、これは避けられない判断であり、できあいの枠内での「破綻処理」としてはこれ以外にないだろう。わが国の政策判断は、もはや財政再建か景気対策かといった一国的な事情からは決定されえないことは、APECでも具体的に明らかになっているのだから。
 問題は、こうした一連の措置を「延命のための一息」として食いつぶしてしまうのか、前に向かって跳ぶための補助具として使いこなすのか、あるいは次の挑戦への投資として生かすのかということである。それはもはや、政府の政策が決めるのではなく、個々の経済主体がその責任において決定し、選択するものにほかならない。その意味ですでに「護送船団方式」のメカニズムは、万全のものではなくなっている。
 まさにこのような意味においても、98年は、生きる意欲のあるもの、新時代に向けて生きるすべを手にしつつあるものにとっては、飛躍と挑戦の年であり、再編の戦略を具体的な行動と組織へと蓄積していく年である。

ここ4−5年の総括は、政党建設の総括として焦点化されている/変革のエネルギーを変革の行動と組織に転じよう

 九七年の総括は、冷戦=55年の残滓との関係では語れない新時代の、本格的な再編の開始にむけて何を準備してきたのかという、ここ4−5年の結末である。とりわけ変革のエネルギーをどう創りだしていくのかという問題は、一点、政党建設の総括として焦点化されようとしている。
 新進党の解散は、まさにそのことの象徴であろう。政党の綱領は、その政党が何をやってきたのかによってのみ検証される。新進党の解散は、まさに綱領が現実によって裏切られてきたことの象徴であり、「二大政党」「政権交代」という主張に、いったいどれだけの中身があったのかと問わざるをえない。「改革」をかかげる政党が、既得権層との妥協でエネルギーを失っていく中で、新進党解散ー小沢新党の結成は、座してこのまま崩壊するよりも、「生き残り」の挑戦に打って出る決断をするエネルギーがあるという意味では評価できる。しかしそれが、綱領の総括と結びついたものでなければ、「絶望の戦術のエスカレーション」にしかならないだろう。この中で「行き場を失う」人々と、本当に自力で生き残ることを学ばざるをえない人々の分岐が始まってくる。
 改革への「火だるま」の決意を表明した橋本政権下で、行財政改革のポイントには、中曾根、竹下、宮沢の元総理が顔を揃えた。バブルのツケの後始末に、(その政策決定の政治責任を問われるべき)バブル期の首相、蔵相が並んだというのは、まさにここ4−5年の政治が一体何をやってきたのかということでもある。この構図は、金融危機が深刻化するにつれ、さらにはっきりしてきた。弥縫策の範疇の「改革」では、「平時」にはもちろん、「危機」の政治決断はできないからである。財政再建を一時棚上げしてでも金融対策をという判断は、重ねて言うがわが国一国の事情によるものではない。これに対して、「政府の失策」を批判することは簡単だが、そのレベルの批判なら、わが国の「国際的な責任論」(=日本発の金融恐慌を引き起こさない)から軽く一蹴されてしまう。それを越えるレベルの政策論議をできるものが、結局ここ四ー五年の中で生まれてこなかったということなのである。
 われわれはまさに、わが国の政党政治におけるこうした「破綻処理」メカニズムを通って、本格的な変革の政党建設、そして新たな国創りに向けた合意形成をおしすすめていかなければならないのである。
 ある人々にとっては「出口の見えない不安定性」の時代であるが、われわれにとっては「希望の見える不確実性」の時代である。現実の生活から生まれてくる「生きる力」と直接結びつき、それを変革のエネルギーに転じていく場、新時代を担う人が育ち、発想が豊かになり、新しい事業が起こり、時代認識を共有できる、そういう場づくりに本格的に着手しよう。この事業は当然、一国的な規模のものではありえず、国境を超えた変革のエネルギーの共鳴と共進として創りあげていこう。