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メルマガ♯がんばろう、日本!         №263(20.6.29)
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「がんばろう、日本!」国民協議会
http://www.ganbarou-nippon.ne.jp
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Index 
□ 「次なる波」に備えるために 
政治不信―総無責任連鎖からの脱却と、持続可能な社会への転轍を

●政治不信が露呈させる総無責任構造 
  「声をあげれば変えられる」という小さな「成功体験」を持続的に集積できるか
●「戦時体制」論が内包する国家万能感と生権力への依存
主権依存からコモンの拡充へ
●権力的「規制・統制」としての財政か、社会的連帯としての財政か


□ 小川淳也議員のドキュメンタリー映画 好評上映中
「なぜ君は総理大臣になれないのか」
 ほか、お知らせ
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「次なる波」に備えるために 
政治不信―総無責任連鎖からの脱却と、持続可能な社会への転轍を
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【政治不信が露呈させる総無責任構造 
 「声をあげれば変えられる」という小さな「成功体験」を持続的に集積できるか】

「今、大臣がそういう発表をされたんですか?」。記者会見していた新型コロナウイルス対策専門家会議・尾身副座長は、西村担当相が専門家会議を廃止すると発表したことについて聞かれ、困惑してこう答えたという。

 専門家会議は2月、政府の対策本部に対して医学的見地から助言を行うために設置された。(オリンピックや習近平来日などへの考慮もあって)政府の対応が後手に回りがちななか、記者会見やメディアなどで積極的に国民に情報を発信してきた。こうした「前のめり」の姿勢は、専門家としての責任感や使命感によるものであるが、あたかも専門家会議が政府の方針を決定しているかのようにも見えた。
 いうまでもなく、責任は政府にある。緊急事態宣言の発出も、その解除も、最終的には政府が判断し、決定している。にもかかわらず、専門家会議が決定しているかのように受け取られるのは、原稿棒読みの総理会見に典型的なように、政府の政策判断の過程が見えないからだ。「専門家会議が政策を決めている」との疑念は、ひとえに政府の無責任さのゆえである。

牧原出・東大教授はこう指摘していた(5/2 論座)。
 「こうした状況で動き出したのが専門家チームであった。政権をあてにせず、自らが情報発信することで、時々刻々変化する事態に国民の目を向けさせようとしたのであろう。だが本来、専門家の判断はあくまでも専門的・科学的見地からなされるものにとどめ、その助言を受けて政治的決断を下し、責任を担うのは政府のはずである。
 ~中略~ここまで一連の流れを見ると、専門家の側は、責任を事実上負わせられるのを覚悟しているのかもしれない。とはいえ、新型コロナ感染症への対応が数年はかかる長いものだとすれば、現在の態勢はあまりにも急ごしらえであり、持続可能性が乏しい。やはり、政府と、科学的中立性に立つべき専門家とは、慎重に仕切られるべきである。さらに、責任の所在が政府にあることも、明確にされなければならない」。

 6月24日に発表された「次なる波に備えた専門家助言組織のあり方について」という専門家会議の提言は、こうした観点から政府と専門家助言組織との責任範囲と役割の明確化を求めている。
まさに専門家会議がこの提言を記者会見で発表しているときに、西村担当相が突如、専門家会議の廃止と新たな分科会設置を発表した。これについて政府・与野党連絡会議では、野党のみならず与党からも経緯が不明などと批判が続出。政府側からは、「総理を本部長とする対策本部の正式決定ではない」などとの回答があったようだ。今後「ご飯論法」よろしく言い訳が並べられるのだろうが、事ここに至っては、政策判断や決定の合理的根拠、過程、説明責任などという以前の、「やっている感」さえも放り投げた政権の総無責任連鎖が露呈しているのではないか。

「次なる波」、さらには大地震や集中豪雨などをともなう複合災害も、「想定外」とはいえない。理由は分からないが、欧米に比べてケタ違いに感染が少なく推移しているここまででさえ、政権はこれほどの無責任さを露呈している。現状は極めて深刻だ。

 この総無責任構造と、どう向き合うか。
コロナ禍で、こうした政府の現状が可視化され、少なくない国民が政治に関心を持ち始め、声をあげ始めた。官邸の思いつきで、巨額の税金を投じて粗悪品が大量に混じった布マスクが配布され(マスク不足が解消された後になって届く)、黙っていたら、自粛下の生活支援として「お肉券」「お魚券」が配られたかもしれない。それに対してフリーランス、学生、自営業者、文化活動関係者など、多彩な人たちが声をあげることで、「政治を動かすことができる」ことが実感された。こうした小さな成功体験は貴重だ。
コロナ禍は、コロナ以前から内在していた社会の脆弱性(格差や不公正、「制度の外」の諸問題など)を突くとともに、それらに向き合う市民社会や民主主義の復元力(レジリエンス)を問う。分断をさらに深めるのか、連帯や信頼を発展させるのか。

コロナ禍で露呈した安倍政権の総無責任構造は、日本社会に内在してきた「政治不信」が顕在化したものにほかならない。よく指摘されるように、国際比較調査において、日本は他の民主主義国に比べて政治不信が強く、また他者への信頼が低いことが知られている。他人を信頼せず、「どうせ変わらない」と政治不信の殻に閉じこもったままでは、連帯は生まれず、総無責任構造がはびこるのは当然だろう。「声をあげれば変えられる」という小さな成功体験を、どのように持続的に積み重ねていくか、そして不信の連鎖を信頼の連鎖へ転換していくか。

 コロナ禍では、各国首脳や政府の対応と安倍政権の対応を比較することも容易になった。ここでも問われるのは、他国の首脳や政策をうらやむことではない。台湾の成功例に対する日本のまなざしへの「違和感」を、許仁碩・北海道大学法学研究科助教は次のように述べる(6/8 論座)。
 「民主主義は、過ちを犯さない英雄に政治を任せる体制ではない。人は過ちを犯すという前提で、市民の手でその過ちを自ら是正できる体制こそ民主主義である。コロナ禍はいつまで続くのは(ママ)誰も予断できない。それは、これからどれほどの課題を解決できるのか、どれほどの命を守れるかにかかっている。
 その際、他国の経験を参照し、自国の盲点を発見することは大事である。喉元過ぎれば熱さを忘れ、『日本モデル』を自慢している場合ではない。政治家に『人任せ』にするよりもっと市民社会に大切にすること、これまで問題とされてこなかったシステムの欠陥を改革すること、そして『自粛頼り』のコロナ対策を見直すこと。多くの命が失われたことから得た教訓をしっかり生かしてほしい」。

【「戦時体制」論が内包する国家万能感と生権力への依存
主権依存からコモンの拡充へ】

 先に引用した許仁碩・北海道大学法学研究科助教は、台湾の新型コロナ対策の成功について、政治家の英雄化や大臣の天才的能力よりも、台湾市民社会の力を強調する。そしてコロナとの戦いを「戦時」に例えることについて、「防疫のために『戦時体制』が必要だという主張は、台湾のコロナ対策の評価としてはずれている。それは『戦時体制』に内包されている国家万能感に惑わされている」と批判する(前出)。

 感染の爆発的な拡大を抑え込む局面では、少なくない国で強制的な私権制限が行われた。しかしこれから想定される長期戦は、「新しい生活様式」などと言われるような人々の行動変容にかかっている。そしてそのためには国家による強制や動員よりも、デジタルテクノロジーの活用が有効だとされる。
 統治におけるデジタルテクノロジーの活用については、しばしば中国のような「幸福な監視社会」がイメージされる。しかし中国といえども、こうした国家的監視は、安心供与などによる市民的同意を内在化したものであるという点で、単なる国家的強制とは言い切れない。

 吉田徹・北海道大学教授は、こうしたデジタルテクノロジーの活用における権威主義国家と自由主義国家との差異は、「薄い皮膜」でしかないと述べる(世界 7月号)。
 「市民の安全を保障するのが国家である限り、そして市民が自己の身の安全――テロに対してなのか、感染症に対してなのかは問わず――を欲するならば、統治能力の向上は個々の行動を公的主体が感知・追跡することでしか望めない。感染症対策においては、個人情報の処理が個人に任されてしまえば、集合行為問題は解決しない。そうであれば、情報の取り扱いの様式・規則という薄い皮膜しか、権威主義体制と自由主義体制の間には存在しないということになる」。

 人々の安全を保障する統治能力。これは最近改めて注目されるフーコーの「生権力」論だ。大まかにいえば、人々の生殺与奪の権限を握る古典的権力に替わる、人々の「生」を効率よく管理し、順応させて「生かす」権力。コロナ禍において、各国が人々を「生かす」ために外出禁止などの強制的な統治力を発動したことは、「生権力」の作動といえるだろう。
 前出の吉田教授は、「生権力を手にする主権という意味では、民主主義国家も権威主義体制も地続きとなる」とする。

 石田英敬・東大名誉教授は、生権力社会の典型例こそ日本だと言う(ゲンロンα6/23 https://genron-alpha.com/article20200623_01/)。例えば、政府からの通達が「外出自粛要請」にもかかわらず、多くの日本人が自主的に従ったことや、自粛警察のように、政府の権力ではなく一般人同士の監視の目が人々を「生かす」ための強力な権力として働くと。

 こうした「我々が生と自己保存を目的にする限り、国家主権を呼び込まざるを得ず、それが我々の生をむしろ脆弱なもの・・・にするという・・・逆説」(吉田 前出)に対して提起されるのは、「主権に依存しない、個人が他者に対して水平的な責任のもとに生きる、より厚い社会を作ること」(同前)である。
 「・・・倫理学者ヌスバウムは、個人の相互依存を前提とした関係性を前提とすることこそが、人間の安全保障につながると指摘した。ウイルスは社会の弱点に巣くう。周知のようにコロナ・パニックでの社会の脆弱さは、統廃合によって半減された保健所数や感染症対策予算削減など、一九九〇年代から進められた公共政策の結果でもある。ゆえに、ポスト・コロナ時代にあっては医療・介護・保健領域の拡充、そのための科学知の涵養など『ケア・エコノミー』が中心に据えられるべきだろう。
~中略~科学思想家の水嶋一憲の言葉を借りれば、コロナ・ウイルスは、コモン(共有財)の拡充を目指す契機を作る『コモン・ウイルス』として認識すべきなのだ」(同前)。
 

【権力的「規制・統制」としての財政か、社会的連帯としての財政か】

 「デジタル化した生権力の強化が不可避ならば、それに対応する強い民主主義が選択されなければならない。・・・デモクラシーをより厚いもの、すなわち政治と社会のより緊密な相互作用と相互信頼による統治様式の創出が求められる」(吉田 前出)。
 財政は、こうした相互信頼をつくり出すための共有財であるべきだ。
 神野直彦・東大名誉教授は、財政の使命は政治システム・経済システム・社会システムという社会を構成する三つのサブ・システムを統合することであり、その再編成が必要になるのが「危機の時代」だとする(世界7月号)。

 新型コロナウイルスがあぶり出したのは、一九九〇年代以降に急速に進んだグローバル化の下での「財政縮小―市場拡大」戦略の行き詰まりであり、それによって拡大されたさまざまな社会の脆弱性である。コロナ時代の財政は、「財政縮小―市場拡大」戦略に替わるシナリオを描き、そこから政治・経済・社会というサブ・システムを再編成することが求められる。

 神野氏はスウェーデンの対策を取り上げる。スウェーデンは多くのヨーロッパ諸国と異なり、ロック・ダウン型の権力的規制・統制策を取らず、市民の自発的規律性に基づく対策をとった。しかし感染者、死者とも他の北欧諸国に比べて突出して多くなっている。しかも死者の多くが高齢者であり、医療現場には過重ともいえる負荷がかけられた。(こうした負の側面は、二〇〇八年からの中道右派政権による民営化に一因があるとされている。)
 神野氏はこう提起する。
 「ロック・ダウン型の短期戦が有効なのか、権力的『規制・統制』を最小限にしようとするスウェーデンの持久戦型戦略が適切なのかを判断する能力は、私にはない。・・・しかし、スウェーデンの『コロナ危機』対応から学ばなければならないことは、この危機を克服して、どのような新しき時代を形成するかという希望のビジョンと結びつけていることにある。・・・権力的『規制・統制』によるロック・ダウン型の『コロナ危機』対応では、危機克服によってどのような社会を形成しようとしているのかが不明である。
・・・スウェーデンの『コロナ危機』対応は逆である。新しき時代を形成する国民運動による『コロナ危機』対応を考えているからである。・・・ストックホルム大学の訓覇(くるべ)法子元研究員の言葉で表現すれば、スウェーデンの『コロナ危機』対応は、『国民が連帯してコロナ危機に立ち向かい、国民の手であらためて民主主義的統治を取り戻そうという意思表明・挑戦』なのである」(前出)

 新自由主義の下での「財政縮小―市場拡大」は、政府の民営化ともいえる。財政は社会的信頼のための公共財としてではなく、市場の失敗の尻ぬぐい、とりわけリーマンショックに端的なように金融資本や大企業の〝救済〟に費やされた。社会システムにおける信頼が棄損され、社会の分断が深まるとともに、民主主義も機能不全に陥る。社会的信頼の棄損は、経済システムにおいてもマイナスに作用する。

 権力的「規制・統制」で、これを再編成することは可能なのか。他者への信頼、社会的な相互依存を前提としないバラバラな「個」(「孤」)が求める「生存」は、生権力を呼び込む。そこでは権力への依存とともに、排除されるべき「他者」が想定される。「『危機の時代』に権力的『規制・統制』が巧みに操作され、全体主義へと陥った過去の悪夢が甦る恐れがあることを自覚しなければならない」(神野氏 前出)。

 民主主義の再創造による危機の克服―サブ・システムの再編成が想定するのは、「小さくもなく大きくもなく、舵を切り間違えないように有効に機能する『賢い政府』となることである」(神野氏 前出)。
 「スウェーデンでは『信頼』と『自発的規律性』を掲げた国民運動で民主主義を再創造していくため、『規律・統制』やそれを受容することへの代償に、財政を動員する必要が小さい。そのため新しい時代を目指しながら、社会的インフラストラクチュアや社会的セーフティネットを張り替えていくことができる。メダルの裏側から表現すれば、感染症対策が経済活動と社会活動とのバランスを保ちながら進められていくことになる」(神野氏 前出)。

 翻ってわが国はどうか。コロナ禍の様相が明らかになりつつあるにも関わらず、令和2年度本予算はビタ一文も修正されず。いったん閣議決定された一次補正予算は、世論と野党に押される形で修正されたが、その大半は自粛に対する支援で、医療体制拡充のための費用(1兆8097億円)は、観光・消費支援(1兆8482億円)を下回っている。財源は全額国債で、新規国債発行額は本予算、二次補正と合わせて過去最大の90兆円あまり。
 はたしてこれが「未来への投資」と言えるのか。

持続化給付金をはじめ、コロナ対策の補助金や支援金の支給における「中抜き」も、「官から民へ」という掛け声の下、九〇年代から進められてきた「政府の民営化」の帰結だ。神野氏によれば、スウェーデンでは政府は社会に「埋め込まれている」が、日本では政府は社会に寄生する肉腫となりつつある。
国民の政治に対する関心の高まりも追い風となって、今国会では野党による政権監視や政策提言が、一定の成果をあげたといえるだろう。さらに求められるのは、その先に「財政縮小―市場拡大」戦略に替わるどんなシナリオを、市民とともに描いていくかだ。

「文在寅政権はキャンドル大統領選挙で多くの国民の支持で発足したが、一七〇〇万キャンドルの要求は政権交代そのものではなく、新しい大韓民国を作ろうというものであることを忘れてはならない」(金元重 世界 7月号)という韓国労組に倣えば、「既存政党間の政権交代そのものではなく、『財政縮小―市場拡大』戦略に替わる新しい日本社会のビジョンと、そこへの転轍のシナリオを共有しよう」という社会の声を強くしていくことこそ、求められている。
 
(日本再生494号 一面より)
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映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」
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小川淳也議員のドキュメンタリー映画!
「なぜ君は総理大臣になれないのか」
ポレポレ東中野、ヒューマントラストシネマ有楽町などで、好評公開中
http://www.nazekimi.com/

*立川、市川、所沢、岡山、長野など上映館拡大中!

小川議員へのダメ出しのようなタイトルだが、見終わって気づく。
問われているのは、有権者である私たちなのだと。
(上西充子 国会パブリックビューイング代表/法政大学教授)

監督の寄稿(論座)
映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』を撮って~小川淳也との17年
大島 新 ドキュメンタリー監督
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020052900010.html

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□ 書籍「みんなの『わがまま』入門」 紹介
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「日本再生」494号(7/1)にインタビュー掲載の、富永京子・立命館大学准教授による
若者に向けた「社会運動のすすめ」的書籍

参照
https://book.asahi.com/article/12548056

「寒いから、冷房止めて」って会社で言える? 社会学者の富永京子さん「みんなの『わがまま』入門」
ご厚意により著者割引→1部 1550円にて。
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□ 都知事選候補者討論会
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報道番組やドキュメンタリーの制作に関わる有志による映像プロジェクト「Choose Life Project」
による都知事選候補者討論会(司会 津田大介氏)が、YOUTUBEで配信されています。

https://www.youtube.com/watch?v=8SiD2nenVsI
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-- 石津美知子
「がんばろう、日本!」国民協議会
http://www.ganbarou-nippon.ne.jp