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メルマガ♯がんばろう、日本!         №260(20.3.30)
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「がんばろう、日本!」国民協議会
http://www.ganbarou-nippon.ne.jp
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Index 
□感染症との総力戦で問われる民主主義の復元力
「コロナ後」にむけて問われる社会のあり方

●ウイルスがあらわにする社会の矛盾や問題点
~社会のあり方が感染症を選択する
●緊急事態・総力戦と民主主義  「社会が生き延びる」ための民主主義を
●「コロナ後」に問われる課題 <グローバル化×新自由主義×デジタル化>
●自治が問われる 新自由主義―自己責任に代わる社会のあり方を

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 感染症との総力戦で問われる民主主義の復元力
「コロナ後」にむけて問われる社会のあり方
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【ウイルスがあらわにする社会の矛盾や問題点~社会のあり方が感染症を選択する】

 中国・武漢で発生した新型コロナウイルス感染症は瞬く間に世界中に広がり、世界保健機構(WHO)はパンデミック(世界的流行)を宣言した。人類は、古くは十四世紀ヨーロッパで猛威をふるった黒死病(ペスト)や第一次大戦末期からのスペイン風邪など、国境を越えた感染症の広がりを経験してきた。最近では、エボラ出血熱やSARSやMERSといった例もある。(ちなみに今回、比較的効果的に対処しているとされている台湾、韓国は、SARSやMERSでの失敗の教訓を生かしているといわれている。)

 長崎大学熱帯医学研究所教授・山本太郎は、「社会のあり方が感染症を選択する」と指摘する。
「なぜ、ある感染症が流行するのか。これまで私たち研究者は、その原因を一生懸命考えてきた。しかし、どうやらその考え方は『逆』ではないかと、私は近年思い始めている。流行する病原体を選び、パンデミックを性格づけるのは『ヒト社会』あるいは大きく『ヒト社会のあり方』ではないかと。古くは、中世ヨーロッパの十字軍や民族移動によってもたらされたハンセン病。十八世紀産業革命が引き起こした環境悪化が広げた結核。世界大戦という状況下で流行したスペイン風邪や、植民地主義と近代医学の導入がもたらしたエイズについては述べた。その意味では、今回の新型コロナウイルス感染症や未だアフリカを中心に収束が見られないエボラ出血熱も例外ではない。人の行き来により格段に狭くなった世界。野生生物が暮らす生態系への、私たち人間のとめどない進出。温暖化による野生生物の生息域の縮小。そうしたことが新たな感染症の流行と拡大をもたらした」(中央公論4月号)

その意味で新型コロナウイルスもまた、「ある種の自然の摂理として、現代文明の矛盾や問題点を大きく浮き立たせるような効果をもったのではないか」(中西寛・京都大学教授 本号インタビュー)といえる。

パンデミックの可能性はこれまでにも予告されてきたが、その影響は途上国において厳しいものになると考えられてきた。しかし今回は保健衛生体制が整っているはずの先進国において、ウイルスが猛威をふるっている。そしてこのことが、パンデミックの危機と世界経済の危機を直結させている。①グローバル化を推し進め、その恩恵を享受してきた世界、②とりわけリーマンショック後の金融緩和政策によって経済を維持してきた世界、という「ヒト社会のあり方」が今回のパンデミックを性格づけ、またその社会の矛盾や問題点を浮き立たせているといえる。

中国・武漢では一千万都市の封鎖という、かつてない犠牲を払った末ようやく収束に向かいつつあるといわれる。ほかの地域でも感染の広がり自体は、ある程度の期間が必要になるとしても、いずれ収束するだろう。もちろんその過程での社会の犠牲は、可能な限り抑えるべきだ。犠牲者は「数」ではなく、一人ひとり名前を持つ、誰かにとって大切な人なのだから。

 だからこそ私たちは感染予防のための基本行動をとりつつ、新型コロナウイルスによってあきらかになった社会の矛盾や問題点を検証し、「コロナ後」に教訓を生かしていけるかが問われている。

「そのひとつの象徴がオリンピックです。日本政府、日本社会としてはオリンピックにいろいろなものを賭けてきたし、実体経済にも社会にも大きな影響を及ぼすことになるので、できるだけ予定どおりやりたいということでしょう。
一方で仮に予定どおり開催できる状況になったときに、コロナの話は一時の悪いエピソードで、元に戻ってよかったということになると、大きな問題を先延ばしにしたまま現状の問題を抱え込むことになるのではないか。そういう意味で、オリンピックにどう対応するかは、日本の社会なり政治の現状に対する認識を反映するものになるのではないかと思います。日本の中でも、そういう観点からの議論をするインセンティブ、場がほぼ失われていますが、本当はそういう議論をする必要があるのではないか」(中西寛・京都大学教授 前出)

【緊急事態・総力戦と民主主義  「社会が生き延びる」ための民主主義を】

 今のところ新型コロナウイルスへの対処は隔離、移動制限が基本になる。当初、武漢での初期対応の遅れ(情報隠蔽)や、その後の強力な都市封鎖(市民的自由の制約)は、独裁色を強める習近平体制に起因し、またそれゆえ可能になるものと思われてきた。ところがヨーロッパやアメリカにも感染が拡大するにつれて、自由・民主主義体制をとる国々でも、市民的自由を強力に制限する政策がとられるようになってきた。逆に日本だけが、「自粛要請」というユルイ対策にとどまっている。
(ちなみに韓国は、大規模なアウトブレイク(集団感染)が発生しながら、新規感染者数の増加曲線を抑えることができたわずか2国のうち、中国ではないほうの国である。そして韓国は中国のように言論や行動に厳しい制限を課すことなく、またヨーロッパやアメリカのように経済に打撃を与える封鎖政策を行わずに、それを成し遂げている。「世界で賞賛される『韓国』コロナ対策の凄み」https://toyokeizai.net/articles/-/340150)

 日本が「自粛要請」というユルイ対策にとどまっているのは(「自粛」なので何の補償もない)、欧米のような市民的自由の制約をともなう強制措置の法的根拠がないことにもよる。しかし本質はそこにはない。総力戦を妨げているのは、ひとえに民主主義の欠如だ。
一部には今回の事態を〝奇貨〟として、緊急事態条項を盛り込む憲法改正につなげようとの動きもあるようだが、安倍首相の会見とメルケル首相やジョンソン首相の演説を比べるまでもない。自粛を要請するだけで判断も責任も丸投げ、官僚が用意した原稿を読み上げるだけの会見しかできない首相から出てくるのは後出し・小出しの対策だけ。対策と称して「ナントカ券」が次々に浮上するに至っては「マヌケ」「無能」と言うしかない。長期戦を覚悟と言う一方で、何の補給もないのは大日本帝国以来の伝統芸か。

問題は強力な権限がないことではなく、政府と国民との民主的信頼の基盤が棄損されていることにある。
「感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある」(ユヴァル・ノア・ハラリ TIME誌緊急寄稿http://web.kawade.co.jp/bungei/3455/)。データ改ざん、公文書破棄、検察トップの人事すら政権の都合で恣意的に行われる安倍政権によって、感染症との戦いで不可欠な政府に対する国民の信頼は地に落ちている。

ヨーロッパ各国は罰則付きの外出禁止令やイベント、集会の禁止など、市民的自由を厳しく制限する措置をとっている。その際に行われたドイツのメルケル首相やイギリスのジョンソン首相のテレビ演説が注目されるのは、「科学の専門家への信頼」に基づいたうえで、「社会が生き延びるために」という政治の決断と責任を、正面から引き受けるものとなっているからにほかならない。それによって「社会が生き延びるための市民的自由の制約」に対する国民的同意が調達される。(ヨーロッパ各国でも、また感染拡大防止のために個人情報を積極的に活用している台湾、韓国でも、市民の多くが政府の措置を支持している。)総力戦・緊急事態において、民主主義はこのように作動する。

 「つまり議会制民主主義をとる立憲主義的国家においては、社会統制を実現するためには、統制する敵を設定するうえで民主主義的な手続きを介した国民的同意の調達が不可欠ということだ。・・・そして、いまわれわれの目前に設定されている敵は、ウイルスである。ウイルスに対抗する国家的社会統制もまた、国民的同意にもとづく正統性を要する」(木下ちがや 「コロナ対策 従順なはずの日本がなぜ「総力戦」を闘えないか 〝動員〟を困難にしている民主主義の欠如」論座3/27
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020032600005.html?page=4)

 感染拡大を防ぐために移動や集会、経済活動の自由などをどこまで制約するのか。ここでは公衆衛生上の有効性とともに、立憲民主主義の観点からの問題設定と検証が問われる。
 「(独裁が許されるためには)共和政ローマを例にすると、三つの条件を満たすことが求められた。第一に、社会の存続にとって必要な一時的な措置に限り、恒久化は認めない。第二に、個人の自由を制約するのは他の同等の権利を守るときに限られ、しかも必ず論証が伴わなければならない。第三に、自らの政権を存続させるために緊急時の大きな権力を使ってはならない。不安に駆られた人々を安心させるためといった、あいまいな理由で緊急時の権力を振るっていいわけではない」(堀内進之介・首都大学東京客員研究員 朝日3/20)

 コロナウイルスとの戦いは「戦時」に例えられる。これは「社会が生き延びる」ための戦いであり、そのための「市民的自由の制約」だ。この戦いに必要な「信頼」(「人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある」(ユヴァル・ノア・ハラリ 前出)や国民的同意、そのための透明性、説明責任、検証などの民主主義に必須の要素を欠いたまま、なし崩し的に「戦時」に移行すれば、無責任、不信、分断が蔓延することになる。
3.11では社会的な連帯の萌芽が一時見られたが、現在ではむしろ無関心や分断が増幅している。太平洋戦争下の総力戦体制でも、多くの国民は大本営発表を信じてはいなかったが、不信感だけでは戦後の社会の変化には結びつかなかった。問われているのは私たちの民主主義、そして社会のあり方ではないか。

【「コロナ後」に問われる課題 <グローバル化×新自由主義×デジタル化>】

新型コロナウイルスは現代社会、とりわけ<グローバル化×新自由主義×デジタル化>というポスト冷戦期の社会の矛盾や問題点を、人類共通の課題として明らかにしている。

新自由主義とグローバル化は相乗効果的に発展してきた半面、それに伴うリスクに対応するグローバル・ガバナンスの体制は不十分なままだ。グローバル化によるヒトの移動の速さと規模が、新型コロナウイルスの急速な感染拡大をもたらした一方、グローバルな公衆衛生の体制は未確立なまま各国が対応するほかはない。短期的には人の移動を制限し、国境管理を厳しくしなければならないが、本質的には国際的な協力・協調こそが不可欠だ。今回の危機は、「自国第一主義」が幅を利かせてきた形勢から新たな国際協調へと転換する機会となるだろうか。

「感染症の大流行への本当の対抗手段は、分離ではなく協力なのだ」「この数年間、無責任な政治家たちが、科学や公的機関や国際協力に対する信頼を、故意に損なってきた。その結果、今や私たちは、協調的でグローバルな対応を奨励し、組織し、資金を出すグローバルな指導者が不在の状態で、今回の危機に直面している」(ユヴァル・ノア・ハラリ 前出)
例えばトランプ政権下で、米中関係は貿易戦争にとどまらない「新冷戦」ともいわれる様相を呈し、新型コロナウイルスについても非難の応酬を繰り返してきたが、こうしたことをいつまで続けるのか。

人類共通の課題ということから、中国・浙江大学の医師を中心に医療者向けに、武漢での治療経験をシェアするプラットフォームができている。(「ウイルスとの戦いをゼロから始めないで」中国の医師たちが治療経験をシェアするプラットフォームが誕生https://www.huffingtonpost.jp/entry/gmcc_jp_5e7c02bdc5b6cb08a927a084?ncid=tweetlnkjphpmg00000001)。
また中国はイタリアやセルビアなどに、物資とともに医療チームを派遣している。これを中国の影響力拡大のチャンスとするのか、それとも武漢の経験を人類共通の経験とするのか。公衆衛生が国境や政治体制を超えた人類共通の課題であるなら、中国が反対している台湾のWHO加盟も実現すべきではないか。

感染が大規模に拡大しているイランでは、アメリカによる制裁で必要な医薬品も不足している。イスラエルによる経済封鎖で「世界最大の監獄」といわれるパレスチナでも、感染拡大が懸念されている。感染症との戦いに、こうした対立や紛争を超えた「共通の課題」として取り組む知恵が問われているのではないか。
 「健康と言えば国家の単位で考えるのが当たり前になっているが、イラン人や中国人により良い医療を提供すれば、イスラエル人やアメリカ人も感染症から守る役に立つ。この単純な事実は誰にとっても明白であってしかるべきなのだが、不幸なことに、世界でもとりわけ重要な地位を占めている人のうちにさえ、それに思いが至らない者がいる」(ユヴァル・ノア・ハラリ 前出)。

経済的利益を中心にしたグローバル化は、一方で対立や分断を深め、「自国第一主義」が台頭することにつながった。問題はグローバル化を止めることではなく、国際的な協力・協調を、グローバル化に見合った水準にまで深化、発展させることであり、感染症との戦いをその糸口へとつなげることができるかだ。
ドイツは自国の感染対策にも追われるなか、医療崩壊の危機にあるイタリア北部からの患者受け入れに踏み切った。風前の灯だったヨーロッパ統合の理想が、人々の支持を獲得する糸口になるだろうか。またそれは、より緊密な新たな国際協調への一歩となるだろうか。

パンデミックの危機は世界経済の危機にも直結している。当面の危機に対しては、大規模な財政出動で対処する以外にはない。各国は営業停止や失業に対する補償や給付、税や社会保険料、光熱費などの猶予や延期などの対策を打ち出している。(安倍政権が「マヌケ」と言われるのは、①「自粛」に対する給付がまったくないこと ②必要なのは「景気対策」ではなく、緊急の生活保障対策であることが、まったくわかっていないからだ。)

では「コロナ後」の世界経済を危機以前の姿に戻すのか。
新自由主義経済の下で広がった国境を超えたサプライチェーンは、経済合理的ではあるが大きな脆弱性も内包している。例えば感染症対策に不可欠な医療用マスクの製造は、世界的にも中国に大きく依存している。その中国での生産中止によって、感染症との戦いの最前線である医療機関は深刻なマスク不足に直面した。さらに言えば抗生物質についても、経済合理性から中国が生産の大部分を担っているという。いのちに関わる製品の供給を経済合理性に委ねるのではなく、社会の安全保障の観点から再編すべきではないか。

「コロナ後」の世界経済には、経済合理性によるグローバルなサプライチェーンや自由貿易などと、経済合理性とは別に国民経済や社会の安全保障の観点から維持する領域を、どうバランスさせるかが問われる。(地域に引き付けて言えば、災害対応や除雪などに地域の土建業は不可欠であり、その生業を維持するために一定の公共工事を発注することは、行革や効率とは別に地域を維持するために必要な投資であり、またそれが地域内で循環することを促進することで、国民経済の基礎である地域経済が成り立つことになる。)

もうひとつは、大規模な金融緩和によって株価を維持することで成り立たせてきた新自由経済の破局に、どう向き合うかということだ。
「つまり感染症への対応にとどまらず、経済対策がより大きな、根本的なチャレンジになっているわけです。すでにリーマンショック以降、西側の資本主義はある意味で、新自由主義的な発想の破綻を示しています。経済が伸びている間、とくに株式市場が上昇を続けている間は市場に不介入といっていますが、危機のときには政治に介入を求める。それが二〇〇八年以降は金融緩和だったわけですが、十二年間金融緩和をやってきて、結局は危機から抜けだせなかった。コロナの前から、その効果はほぼ失われつつあったわけです。
そういう状況で改めて、金融政策の不十分さが示されている(金融緩和をしても株価の下落に歯止めがかからない)」(中西寛・京都大学教授 前出)。

金融政策で危機を先送りしてきた新自由主義の手法は、いよいよ破局を迎えつつある。カネがカネを生むことでGDPを膨らませる経済から、GDPの中身や質を問う、成長の質を問う経済への転換。「脱炭素化」は、そのひとつの糸口ではないか。

感染症との戦いでは、情報テクノロジーも大きな要素となる。5Gは情報テクノロジーがSNSやIoTという段階から、スマートシティのような社会インフラの基盤となることを意味している。監視社会の側面も持つこうしたテクノジーをどう使っていくのか。
中国は感染拡大防止のために、顔認証をはじめとするITテクノロジーを徹底的に活用した。また台湾や韓国でも、隔離者の健康管理や感染情報の周知などで情報テクノロジーが積極的に活用された。中国では初期に感染情報の隠蔽があったように、情報統制や社会監視の側面が強調される。一方、台湾や韓国では市民に対する徹底した情報開示と、それに基づく協力のツールとして活用されている。

よく知られているように、台湾で行政府として積極的にITテクノロジーを活用しているのは、「ひまわり運動」にも参画した唐鳳氏だ。
「偽情報の多くは中国本土から配信されている。にもかかわらず、台湾では独立派の政治家の支持率が上昇している。唐氏はここに政治家と市民の相互関係があるとみている。政治家が一般市民の政治への直接参加の機会を広げれば、市民は政府への信頼をより強めるのだ。ソーシャルメディアが『偽の敵対感覚』を生む以上に、台湾では分散化技術を通じて人々が『現実を共有している感覚を持てる』ようになってきたと唐氏は言う」(ラナ・フォルーハー 日経2/21)

デジタル技術をどう使いこなすのかを決めるのは、社会のあり方にほかならない。デジタル技術の利用において、日本は中国、台湾、韓国はもとより東南アジア諸国にも後れを取っているのが実態で、こうした現実に向き合えるかということも問われるが、同時に不信や分断、無責任が蔓延する社会では、どんな優れた技術であっても使いこなすことはできない、という冷厳な事実にも向き合わなければならない。

【自治が問われる 新自由主義―自己責任に代わる社会のあり方を】

特別措置法では、感染症との戦いにおいて都道府県知事に大きな権限が付される。首相の思い付きのような突然の学校閉鎖でも、学校を管轄する自治体とりわけ首長には、どれだけ現場(学校、先生、家庭、地域、社会生活全般)に即した対応を取れるかが試された。国の要請に唯々諾々と従って現場に丸投げするだけなのか、国の要請はそれとして(「端から従うつもりはなく」という首長もいた)、社会生活の維持と感染拡大防止のバランスをぎりぎりで取りながら、地域の実情に即して考え抜いた対策を取ったのか。その違いは市民にもよくわかったはずだ。

「誰がなっても同じ」「どうせ変わらない」と選挙にさえ行かなければ、愚かでマヌケな政府の決定で生活が立ちいかなくなるかもしれない。そのときに大事なのは、もっとも身近な自治体の首長ではないか。
和歌山県知事は、国の基準を無視して独自にウイルス検査を行い、県下の病院での感染を早期に封じ込めた。学校閉鎖で保護者が仕事に行けない、「自粛」で収入が減るなどの事態に対して、独自の給付を行ったり、上乗せしたりする自治体も複数存在する。地域の実情に即して〝いのちとくらし〟を守るために必要な施策を打つからこそ、国に対してもモノ申すことができる。
地域が自己決定できる地方自治の力は首長だけではなく、議会、市民それぞれにも試される。

 もうひとつは、私たちの社会のあり方だ。「風邪くらいで会社を休むな」という社会では、「体調が悪い場合は自宅静養」という初期の対策さえ取りにくい。また学校閉鎖でも明らかになったのは、先生も看護師も医師も保育士もいっぱいいっぱい、学校も病院も保育園もどの職場も、ギリギリの状態で何とか回していたということだ。「コロナ後」に元に戻すのではなく、持続可能な社会のあり方にむけて働き方、暮らし方から再構築しようではないか。

 また「自宅療養」と言われても、そのための部屋さえないという住宅格差は厳然と存在するし、増加する一方の単身世帯では自宅療養もままならない。「感染症は不平等のリトマス試験紙」と言われるそうだが、感染症の被害はもちろん、感染拡大防止に伴うさまざまな社会的経済的なしわ寄せも、弱い立場の人々により多くもたらされる。新自由主義の下では健康すら「カネ次第」「自己責任」とされてきたが、「社会の健康を守る」という観点からの多角的な社会政策が必要ではないか。

 イタリアで感染が拡大して医療崩壊に至っている一因は、近年の緊縮政策で病院などの医療施設が縮小されてきたことにあるという。最近日本でも、医療費削減のために病院の統廃合が計画されている。カネで健康を買うしかない社会では、ゲーテッドシティのように金持ちの健康は守られるが、弱者は放置される(それも自己責任で何とかするしかない)と思うかもしれない。しかし感染症で社会が崩壊する危機の前には、ゲーテッドシティも無力だ。

 新自由主義―自己責任に代わる社会のあり方を構想するときではないか。そのためには〝いのちとくらし〟の現場で何が問題なのか、幅広い現場の声を聞き、そのなかから共通の課題を整理し、効果的な対策へとまとめ上げるとともに、それらを体系立てることで政策思想の軸の転換へとつないでいくことが、不可欠だ。そしてそれこそが本来、議員や政党に求められる役割であり、また議員や政党だからこそできる役割にほかならない。

(「日本再生」491号 一面より)
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-- 石津美知子
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