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「がんばろう、日本!」国民協議会
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▼ Index 
□見え始めてきた「未来へ投資する社会」の多様なモデル 
 他人任せの「凡庸の悪」から、未来を選び取るための「凡庸の善」へ

@社会のイノベーションが始まった
A事業家精神の復興
B国は大きすぎて変えるのは難しい。でも自分のまちなら変えられる。
C「考えない」という「凡庸な悪」 
 それにのみこまれない「凡庸な善」の集積と持続性

□お知らせ

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見え始めてきた「未来へ投資する社会」の多様なモデル 
 他人任せの「凡庸の悪」から、未来を選び取るための「凡庸の善」へ
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 十一月十日開催のシンポジウムは、「未来へ投資する社会」へ転換するひとつの 糸口を提示するものとなった。このシンポジウムは一月に開催した「エネルギー自治」の継承・発展として、再エネ事業を切り口に「エネ ルギー転換と地域再生」、およびその担い手たる地域主体を生み出す「地域の自治力とその集積」をテーマとしている。これは同時に「市 民が地域経営の主体になる」という点では、八月十日に開催したシンポジウム「自治分権の突破力を競う」とも通底している。

 リーマンショック、そして3.11の衝撃を受けて私たちは否応なく、これまで の社会のあり方、生活のあり方、経済のあり方からの転換を迫られてきた。そしてようやく、垂直的集権的システムから自立分散型システ ムへとか、グリーンエコノミー、グリーンニューディールといった言葉で語られていた転換の方向性が、生活実感のレベルでも像を結び始 めてきた。「未来へ投資する社会」ということが、他人称やお任せの願望ではなく、自分も担い手の一人としてどう参加するか、そのため に今どう行動するかというリアリティーを伴って、目の前に見え始めている。
 いくつかのポイントを整理しておこう。

@社会のイノベーションが始まった

 固定価格買取制度は直接は再エネを促進する政策であるが、より深い意味で社会 のイノベーションを促す。より正確に言えば、買取制度を地域がちゃんと使いこなせば、社会が大きく変わる起爆剤となりうるということ だ。
 再エネは自然資源に基づいており、それは地域に固有の伝統的な産業(第一次産 業)と密接に結びついている。すなわち再エネ事業とは、地域の第一次産業から新たな価値を生み出す事業といえる。

 植田・京都大学教授は「再エネメガネをかけてみれば、これまでゴミだと思って いたものが資源に見える」と述べた。銘建・中島社長は、産廃扱いになっていた木屑をエネルギー源とすることなどで、一本の木を元から すべて使い切るという林業・製材業プラス、エネルギー産業の新しい姿を示した。地域資源を使い切ることによって、地域は第一次産業が 生み出す価値に加えて、エネルギー生産物の価値を得ることができる。人口千人ほどのドイツの村は、十年ほどの取り組みで、それまでエ ネルギー代が年間六億円、地域から出て行ったのが、再エネ事業で逆に十三億の収入が得られるようになった(寺西・一橋大学教授)。

 農山村の持続可能な発展と「未来へ投資する社会」は、こうして私たちの前に見 え始めている。それを他人称やお任せの願望で語るのか、どんなに小さくてもそこに参加するプレイヤーの一人として語るのか。都市部に はそれが問われている。

 再エネの促進が促す社会のイノベーションは、農山村だけのものではない。ドイ ツで再エネ普及の担い手になっているのはメガソーラーではなく、無数の小規模な住民主導の発電所だ。運営しているのは農山村の住民や 地元中小企業だが、投資を通じてそれを支えているのは都市部の住民でもある。日本には、ドイツのエネルギー協同組合のような仕組みは ないが、市民ファンドで参加することは現状でもできる。

 そして都市部で進んでいるのは配電網の再公有化を通じた、エネルギーシステム への住民参加、民主化である(諸富・京都大学教授)。その先に見据えられているのは、スマートグリッドをはじめとする分散型システム であり、そこにおける(エネルギー、さらには生活の基礎インフラを他人任せにしないための)自治および自治体の役割のバージョンアッ プであろう。

 これを、日本は連邦制のドイツとは仕組みが根本的に違うから、という思考停止 で聞くだけなのか。スイッチを入れさえすればいい、コンセントの先がどうなっているかは何も考えないという、3.11以前の一方的な 受益者にとどまるのか。地域の再エネの担い手とのつながりのなかで、消費者でもあり生産者でもあるという「プロシューマー」への一歩 を踏み出すのか。これは「国が〜」とか「制度が〜」ということではなく、あなたが一歩踏み出すかどうかの問題だろう。

A事業家精神の復興

 再エネ事業―買取制度を地域再生のツールとして使いこなせるかどうか、それは まさに地域の担い手次第である。
 買取制度のミソは、自分たちでリスクを取って事業を興さない限り、制度の恩恵は 受けられないということである。そして、少なくとも二十年間は事業を継続していくことが前提になっている。ハコモノをつくれば終わ り、という旧来の補助金発想とは次元が違う。当然、意識を変えることがともなう。

 「中島社長が言われた、意識を変えるということですね。私も結論の部分で、事業家精神を再興すると言ったのはそういうことでして、森林組合も含めてどう しても今までは、公共事業として請け負うという形になっていたため、自分たちでイノベーティブなことをやる、あるいはリスクを 負って事業をするという形になっていなかった。これをどう変えていくかということが、これから日本の農山村の非常に大きなテーマになると思いますね」(諸富・京都大学教授)

 農山村に事業家精神を復興する。それは、突出した誰かが強力なリーダーシップ でみんなを引っ張る、ということではなく、住民が地域の将来像について、自ら徹底的に議論し合意形成するなかからこそ、生まれてく る。こうしたことは、再エネ事業のような一定規模の資金と設備を必要とする事業を運営するところまでいかなくても、住民自治・まちづ くりにおける基本である。

 同時に、地域の将来像にむけた地域資源を再発見するうえでは、「よそ者、バカ 者、若者」といわれる「異質の視点」も必要だ。スティーブ・ジョブスは、stay hungry, stay foolishと述べたが、「よそ者、バカ者、若者」の視点は東京の後追いなどではない。
 「東京というのは、好奇心を持っている人間でも、お金がないと何もできないんで す。〜東京は自由なところだと勘違いしがちだけど、これほど行動が制約されてしまう場 所はない。それを異常だと知らない人たちが集まっている異常な所なんですよ」
(http://qonversations.net/trip/okayama/yoshida_watanabe/2892/)

 東京とは違う座標軸、あるいは3.11後の座標軸で見れば、「未来へ投資する社会」にむけた事業家精神が見え てくる。

B国は大きすぎて変えるのは難しい。でも自分のまちなら変えられる。

 こうして「未来へ投資する社会」のモデルは、顔をのぞかせ始めている。「失わ れた二十年」―依存と分配の惰性はまだ(制度上 でも)数多く残っているが、「未来へ投資する社会」のモデルも着実に育っており、その成長を阻止する力は、もはや旧い制度には残って いない。今必要なのは、地域からの多様なモデルである。

「これ(国全体のビジョン/編集部)は、地域の動きがあって初めて具体化される面もありますね。ニワトリが先か卵が先か、みたいな面があるんですが、私は諸富先生と同じような考えで、地域のイノベーティブな、クリエイティブな 取り組み、そこに成功例が出てくることが、日本では大きく広がる契機になると思います。だから先覚者が出てこないといけな い。パイオニア的にフロンティアになる地域が出てきてくれることが大切です。
〜中略〜同時にもう一つ言えることは、ネットワークですね。つまりコミュニケーションと 相互学習で励まし合っていくということです」(植田・京都大学教授)

 分権改革についても同様のことが言える。制度面では遅々としてしか進んでおら ず、総務省や全国知事会、市長会などはむしろ後退していると言えるだろう。しかし自治体の現場ではそれぞれの創意工夫、それこそイノ ベーティブな取り組みが多々展開されている。そのなかから、旧来の枠にとらわれないネットワークや連携も始まっている。その押し上げ があってこそ、次の段階が開けるのではないか。

 問われているのは「国が〜」とか「制度が〜」ではなく、自らの一歩だ。国や制 度を変えるうねりは、それなしには始まらない。

 「国は大きすぎて変えるのは難しい。でも、身近なところからだったら変えられ るはず。自分のまちから少しずつ変えていきたい」。福島原発事故のため、いまだに漁が制限されている相馬の漁師、菊池基文さんの言葉 だ(「東北食べる通信」9月号)。震災前はパチンコに行くこともあったが、やめた。環境問題やこれからのエネ ルギーを考えるNPOを立ち上げ、自然エネルギーの普及活動や、地域の小学校を回り、子どもたちに節電を訴える活動もしている(同 前)。

 現状の問題を、「国が〜」とか「制度が〜」といったとたん、その解決は「他人 事」になる。しかし3.11ではっきりわかったのは、 エネルギーや食、命を守るといった生存の基本を「他人任せ」にしてきた生活の危うさではないか。とくに都市部の利便性や「自由」は、 じつは「異常なことを異常と思わない」ほど異常なものだったということだ。

 計画停電で分かったことは、電気は一方的に享受するだけではなく、需要側(私 たち)でコントロールすることもできる、ということだったはずだ。生存の基本にかかわることを、全部は無理にしても、その一部でも自 らの手に取り戻す。そのたゆまざる歩みのなかからこそ、「望む未来を選びとる」(おひさま進歩)ことが可能になる。

C「考えない」という「凡庸な悪」 それにのみこまれない「凡庸な善」の集積と 持続性

 原発ゼロも含むドイツのエネルギー改革がここまでできたのには、さまざまな要 因を挙げることができる(「日本再生」四一四号 一方井・武蔵野大学教授 参照)。なかでも重要なのは国民世論の持続的支持であり、 市民の粘り強い運動だろう。彼らはチェルノブイリを忘れなかった。私たちは3.11、福島原発事故を忘れるわけにはいかない。

 永田町や霞ヶ関、経済界のなかには、3.11以前に戻そうという動きはある。 だが一番の問題は、「忘れる」「考えない」(よって「お任せ」)という「凡庸な悪」だ。
 ハンナ・アーレントはユダヤ人虐殺の中心人物であったアイヒマンの裁判を傍聴 して、虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上考えようとしなかったことが彼の罪だと結論づけた。福島原発事故が いまだ収束したとはいえないにもかかわらず、原子力発電やエネルギーについて「考えない」ことこそが、罪なのだ。

 これはきわめて「凡庸な悪」だからこそ、誰にでも共通する。「それが自分の仕 事であるからと、それ以上考えようとしない」というのは、多くの人にとって普通のことだろう。だがそこには「社畜でいるほうがラク だ」という、自分の人生に対する怠惰はないか。食やエネルギーといった生存の基本まで他人任せにはしない、小さくても自分の人生の オーナーでいたい、というところからは「凡庸な悪」との葛藤が不可避的に生じる。「考える」というのは、そういうことではないか。

 「考えない」ところには、守るべき歴史や伝統、社会という根っこは生えない。 だからユーレイなのだ。そのままでは「国家」というフィクションに依存せざるをえない。ここには、主権者として政府を作りコントロー ルする、という当事者意識はない。「国家」という記号を消費者として消費するだけだ。
 こうした「凡庸な悪」には「凡庸な善」で対処するほかはない。「未来へ投資す る社会」、その多様なモデルを地域から作る、そのためのネットワークから「凡庸な善」を無数に紡ぎだす。その持続性と集積によってこ そ、未来を選び取ることができる。

(「日本再生」415号)
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お知らせ
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◆関西政経セミナー特別講演会&望年会
12月17日(火)
18時より 特別講演会 「日本外交に問われるもの」
講師 村田晃嗣・同志社大学学長
コープイン京都 202会議室
1000円
19時すぎより 望年会 コープイン京都1階
3500円

◆望年会 東京
12月21日(土)17時より
「がんばろう、日本!」国民協議会事務所(市ヶ谷)
1500円

---2014年の予定---
◆第131回 東京・戸田代表を囲む会
「農林水産業・地域再生への展望」
1月14日(火)18時45分より21時
ゲストスピーカー 寺西俊一・一橋大学教授

◆第22回 京都・戸田代表を囲む会
「国民主権の発展としての憲法改正を」
2月1日(土)18時45分から21時
コープイン京都 202会議室
1000円
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石津美知子
「がんばろう、日本!」国民協議会
http://www.ganbarou-nippon.ne.jp