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「がんばろう、日本!」国民協議会
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「民主もダメ」「でも政権交代には意味があった」。
で、どうする?
「閉塞感の打破」を求めて、期待と失望を繰り返すのはもう止めよう。
主権者としての議論の深まりこそが、この国の未来を決める。

●政権交代可能な民主主義を定着させられるかどうかは、有権者にかかっている
●未来を搾取する社会から、未来へ投資する社会へ

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「民主もダメ」「でも政権交代には意味があった」。
で、どうする?
「閉塞感の打破」を求めて、期待と失望を繰り返すのはもう止めよう。
主権者としての議論の深まりこそが、この国の未来を決める。
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●政権交代可能な民主主義を定着させられるかどうかは、有権者にかかっている

〇九年の政権交代から三年余りの衆院選。政権交代に期待した民意の最大公約数は今、「民主もダメ」「でも政権交代には意味があった」というところではないだろうか。郵政選挙の熱狂、政権交代選挙の高揚。三度目の正直というが、そろそろ「一票で政権を変えられる」という民主主義のステージにおける、主権者としての振舞い方を身に着けるときだろう。
選挙を、憂さ晴らしやドンチャン騒ぎとして消費するのは、もうやめよう。選挙で政権を選ぶのは、政治バラエティーで言いたいことを言ってスッキリするのとは、わけが違う。政党が乱立し、どれが真意か分からない公約が飛び交う中だからこそ、主権者としての選択眼をこれまで以上に磨こう。

逆説的に言えば、民主党政権の最大の功績は、「こうすれば政治が劇的に変わる」という“魔法の杖”はないことを明らかにしたことだろう。民主主義が独裁と違うのは、誰か「強いリーダー」が「こうだ」といえば、制度や仕組みが変わるのではないという点だ。主権在民とは、特定の誰かではなく国民が決定権を持つということ。「決める」ためには、異なる意見や対立する利害を調整して、「みんな」とまではいかなくても、多数が納得する合意を形成するという、面倒で手間のかかるプロセスが不可欠だ。それをすっ飛ばして「何でもいいから誰か、強いリーダーが決めてくれ」と、民主主義を放棄するわけにはいかない。もちろん、選んだら後はお任せで結果には文句を言う、という習慣も卒業しなければならない。

 ようやくその入り口に立った政権交代可能な民主主義が、これからさらに定着していくのか、それとも政権交代さえ、憂さ晴らしのタネとして消費してしまうのか。政権交代可能な民主主義の重要な担い手たる「政党」が液状化し、選挙互助会以下の存在になっている今、政権交代可能な民主主義を定着させられるかどうかは、国民、有権者にかかっている。

そのために政党、候補者に何を問い(彼らが何を宣伝したいか、ではなく)、どんな対話を有権者から仕掛けていくか、フォロワーの智恵を絞ろう。「何を問うべきか」を、主権者としての議論の深まり(熟議)のなかから作り出していこう。その問いに耳を傾け、対話に応じる政党、候補者なのか。言いたいことを一方的に訴えるだけの政党、候補者なのか。そもそも公開討論会にさえ出てこない(出てこられない)ような政党、候補者なのか。選別していこう。

政権交代を定着させるためには、政権与党の業績評価というプロセスも重要だ。民主党マニフェストは(出来の良し悪しとは別に)国政マニフェストとしては、はじめて「検証」というプロセスを経た。その意義は小さくない。これまでに選挙のときの公約が、ここまで検証されたことがあっただろうか。郵政選挙のマニフェストが、このように検証されただろうか。ようやく一歩を踏み出したマニフェスト政治文化をチャラにさせないためには、選挙の公約は必ず厳しく検証される、ということを政党に思い知らせる必要がある。そもそも次の選挙まで存在することを想定していない、その場限りの選挙互助会では、その対象にすら値しないということだ。

民主党マニフェストの躓きの原因の一つは、党内論議を尽くさずに少数で決めたという点にある。政党を規律化するというマニフェストの機能が損なわれた。「政権をとれば何とかなる」との驕りもあった。今回必要なことは、各政党が掲げる公約なりマニフェストなりの中身と同時に、それによって政党がどれだけ規律化されているか、を問うべきだろう。打ち上げ花火のような公約を弄んでいるかぎり、選挙互助会としてのまとまりすら保てないのは当然だ。

われわれが求めているのは、既得権を叩く「破壊のカタルシス」でもなければ、打ち上げ花火のようなスローガンでもない。もっと地道な地に足の着いた議論とその集積だ。
例えば、今回の解散は@消費増税を含む税と社会保障の一体改革、A赤字国債発行法案の成立、B衆議院の定数是正について、民主・自民・公明が合意したことによるものだ。したがって少なくとも三党は、選挙後にこの合意をどう実行していくか、明確に示す必要がある。それは、「決められない政治」から脱却する責任をどう負うのか、政権交代時代の責任政党とは何かを示す一歩にほかならない。

社会保障については国民会議の人事までが決まった。二〇〇〇年代には社会保障改革が政党間の争点となったが、それをようやく卒業するステージに入りつつあるということだ。(政権交代が定着した先進国では、社会保障制度を政権選択の争点としないことは合意されている。)最低、これを後退させないことを三党は約束すべきだ。さらに国民会議の名にふさわしく、国民に開かれた合意形成過程にするためにどうするか、スタンスを明らかにすべきだ。

赤字国債発行法案については、「ねじれ」国会で再三、政治の駆け引きに使われてきた。ようやく向こう三年間は赤字国債の発行を認めることで三党が合意したが、これを「衆院優位」のルール化につなげられるか。政権交代に続いて必要だったのは、一票で選ばれた衆議院の多数派が内閣を構成する、という議院内閣制を機能させるための国会改革だったはずだ。参議院廃止とか大統領制といった打ち上げ花火を弄ぶヒマがあったら、憲法改正なしにできる国会改革―衆院優位の確立に一歩を踏みだせ!

定数是正については、選挙制度改革と絡めた議論が行われることになるだろう。これに三党はどう臨むのか。一部には、中選挙区制の復活につなげようという動きもあるという。少なくとも政権交代可能な民主主義を目指して導入した制度の根幹が歪められたり、すりかえられたりすることがないことを約束させよう。
第三極も含め、この三党合意に加わっていない政党は、この三点にどういう態度をとるのか。消費増税反対なら、その分の財源はどうするのか、民主党政権三年間の総括も含めてきちんと示すべきだ(事業仕分けにも係わることなく、「ムダを削減」という人たちは論外)。

政権交代は、更地に新しい家を建てるようなものでもなければ、真っ白な画用紙に好きな絵を描くようなものでもない。〇九年の政権交代は、「失われた二十年」で積みあがった不良債権を背負ったところから始まった。3.11の原発事故の構造要因は、自民党政権時代のツケだ。そのなかで「できたこと」「できなかったこと」「なぜできなかったのか」「どうすればできるのか」あるいは「やるべきではないのか」を、ひとつずつ検証していくことが必要だ。その積み重ねなくして、次の一歩は始まらない。グレートリセットを求めて期待と失望を繰り返している間に、未来はどんどん搾取されていく。

われわれに必要なものは、「こうすればうまくいく」という“魔法の杖”ではない。「できたこと」「できなかったこと」「なぜできなかったのか」「どうすればできるのか」あるいは「やるべきではないのか」という地道な検証と業績評価に基づく選択、そのフォロワーとしての集積だ。(自治分権の現場では、それは着実に集積されつつある。)そのフォロワーの問いに耳を傾け、対話できる(一方的に訴えるのではなく)政党、候補者をまず次のステージに立たせよう。

●未来を搾取する社会から、未来へ投資する社会へ

 〇九年の政権交代の意義は、「世界第二の経済大国幻想」を前提にした粉飾決算をやめて、「本当は日本がどうなっており、どうなりうるか」という21世紀の新しい現実と向き合う目線を共有することにあった。
民主党政権の最大の功績は、この21世紀の新しい現実を示したことだろう。逆にいえば、この21世紀の新しい現実が見えている場合と、見えていない場合とでは、民主党政権の失敗の意味は一八〇度違ったものになる。その仕分けが決定的だ。

 例えば経済、財政、金融をめぐる諸相は、象徴的にリーマンショック以前と以後とでは、大きく変わっている。世界同時財政恐慌といわれるようなリスクが常態化するなか、ユーロ危機は慢性化し、アメリカも「財政の崖」に直面し、中国も景気後退と地方政府の債務の山に直面している。わが国の1000兆円超の政府債務も、国際的な変動に大きく左右されるという点で、リスクの意味はこれまでとは違っている。消費増税を先行させた三党合意の背景には、その危機意識がある。
それが見えていない「民主党の失政」批判では、「これをすれば景気はよくなる」式のお気軽な話しかでてこない。これでは、今や財政も金融も一国の事情だけでは決められない、国際的な変動の中でリスクマネージしなければならない、という肝心なことが見えないことになる。

 安全保障も「集団的自衛権を認めるか、どうか」という空中戦では困る。野田政権の下で設置された国家戦略会議・平和のフロンティア部会は、従来の憲法解釈を改めて集団的自衛権を行使できるよう提言している。ここで重要なポイントは、憲法解釈云々ではなく、二〇五〇年という未来から、現状のG2ないしはG0といわれるようなパワーバランスの大きな変化をとらえ、わが国がいかなる立ち位置を取りうるか(「包括的な平和の創り手」)という議論の中で、こうした提言を行ったという点である。(繁栄、叡智、幸福という他の部会も、二〇五〇年からのバックキャスティングという手法で議論した。)
 こうした基盤を共有したうえでの「民主党の失政」批判なのか。55年体制の復古主義は趣味の問題かもしれないが、東アジアのパワーバランスの変化という現実が見えていないのは、趣味の問題では済まされない。早い話、強面の憲法改正論を振り回すことが、同時期の韓国大統領選挙に影響を与える可能性、そのリスクマネージはできているのか。

 あるいはG2ないしはG0といわれるようなパワーバランスの変化がリアルに見えるからこそ、経済力を背景に力で押してくる中国にルールで対抗する、という立ち位置に立つために、TPPも日米同盟も必要だと言い得る。この変化が見えていなければ、TPPも日米同盟も、単なる中国脅威論や中国包囲網でしか語れない。そのときの「国益」とは何か。(国益を損なうならTPPに参加しない、というときの「国益」とは、まさか個別業界の利害ではあるまい。)

 原発も「脱」やら、「卒」やらの打ち上げ花火に付き合うほど、われわれはヒマではない。脱原発は稼動をゼロにしたり、核燃料サイクルを止めればそれで済む、というものではない。社会経済システム、われわれの生活全般に大きく係わる以上、社会的なコンセンサスを繰り返し、それを積み重ねていかなければならない。ドイツの原発ゼロは、チェルノブイリ事故以来、営々とその国民的議論を積み重ねてきたからこその国民合意にほかならない。そのプロセスをすっ飛ばせば、「たとえ今、脱原発依存を宣言しても、選挙で政権が変われば、その決定は数年もしないうちに、たやすく覆される可能性がある」(枝野幸男「叩かれても言わなければならないこと」)。

だからこそ「止め方」が大切なのだ。「脱原発依存とは、最も深刻な『負の再分配』に直面することである」「原発はやめなければいけない。しかし他方で、やめ方を間違えてはいけない。ただ、危ないから早くやめるべきだ、早くやめようと言うだけなら、それは政治ではない。どうやったら確実にやめられるのか。それを考えて、そこに一歩でも近づけるのが政治の責任であり義務である」(同前)。
この基盤を共有したうえでの、「民主党の失政」批判なのか。そうでなければ単なるスローガンの言い放しか、なし崩しの現状肯定か、どちらかにしか帰結しない。

ここから民主党政権のもうひとつの功績が見えてくる。それは歴史上はじめて、やめ方、たたみ方のマネジメントという政権担当能力のハードルを可視化したことにある。経済も人口も右肩上がりで増えていく時代には、何かをやめるにしても、別の何かを分配することができた。しかしこれからはそうはいかない。21世紀の新しい現実が要求する政権担当能力とは、やめ方、たたみ方のマネジメントであり、不利益や負担の再分配に関する合意を形成することだ。

原発ゼロにしろ、コンクリートから人へにしろ、次の社会ビジョン・21世紀の新しい現実からの転換は、いくらその必要性を説いたとしても、人々の不安を呼び起こすことも事実だ。既得権を叩いて壊せばいい、という次元のことではない。野心的な転換であればあるほど、ついていけない層にまで納得感を醸成するマネジメントが求められる。もはや、分配する利益がない時代に、こうしたたたみ方、やめ方のマネジメントを、どうやって身に着けていくのか。
これは右肩上がりの時代の政権運営にはなかった、民主党政権ではじめて可視化されてきた課題である。これを共有したうえでの「民主党の失政」批判なのか。

自治分権の現場では、老朽化したインフラの縮小も含め、やめ方、たたみ方の合意形成がリアルに求められている。既得権層も含めた納得感、合意形成のためには何よりも、市民に開かれた熟議の場が不可欠だ。その試行錯誤、実践はすでに集積されつつある。そこから民主党の政権運営を批判する場合と、右肩上がりの経験から批判する場合とでは、同じ「稚拙」という言葉でも、意味が一八〇度違うことになる。

 そして民主党政権で明らかに変わったことは、事業仕分けをはじめとするオープンガバメントの取り組みである。これを後戻りさせるわけにはいかない。財政規律が働くかどうかは、結局、決定過程や執行過程に国民の目が届くかどうかにかかっている。統治機構の改革は、憲法改正を振り回すような制度いじりの空中戦ではなく、地道だが確実に国民主権を具体化していくインフラ整備の集積ではないのか。

 チェンジに失敗し、打ち込まれた先発ピッチャーをもう一度マウンドに立たせる、という叱責・批判の方法もある。これだけはやるなとクギをさして、監視つきで選手交代させる、という方法もあるだろう。
 いずれにしろ、「政党」の現状は目を覆うばかりだ。「あっちもこっちも/ひとさわぎおこして/いっぱい呑みたいやつらばかりだ」(宮沢賢治)。だからといって、私たちは次世代に引き継ぐ民主主義を、あきらめるわけにはいかない。そのフォロワーシップこそが必要だ。「われわれは最後まで戦い続ける、敗者に甘んじることはない」(we are the champions Queen)
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石津美知子
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